correspondence: 鈴木宏平 12(最終回)

2012年 11月 4日   /   correspondence
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1年を経て最終回となる今回は、ひさしぶりに鈴木さんと顔をあわせてお話しすることにしました。当初は西粟倉村へ行こうとしていたのですが、偶然にもその予定に重なるように彼が仙台へ来ることになったため、それでは他のメンバーもまじえて話を聞こうということになり、いつも聞き手であった小川のほか、柿崎、酒井も一緒の場となりました(菊地と鹿野は出張中)。


 

書いて語ること

 

小川
今日のためにこれまでの11回分を読み返してみたんですが、今更ながら思ったのが、鈴木さんは毎回の質問をどう受け止めていたのだろうかと。この11回のなかで僕が迷いつつ尋ねたことがふたつあって、ひとつは3月11日のこと、もうひとつは放射能のことです。この往復書簡を始めようと思ったときに、毎回震災にからんだ話ばかり聞くのは止めようと。震災をめぐるメディアの描き方になんとなく疑問があってはじめたわけで、生活全般のことを聞こうとしていました。

鈴木
実は毎月びくびくしていました(笑) 下手な文章を書けないなあというプレッシャーがすごかった。  だいたい20日すぎに小川さんからFacebookにメッセージが届きますよね。23日あたりでもメッセージが来ないと少しホッとするんです。「まだ来てないぞ」と。それが27日ごろにくると「来たー」と。不特定多数の読者を意識した文章を書くのがはじめての経験でしたからね。本当に手探りでした。

小川
最初の返信をもらったときに、素直に文章が上手だなあと思いましたよ。以前一度お会いしたときに、池澤夏樹の愛読者だと聞いて、僕もその一人でしたから、なるほど文体上の親しみやすさというものがあるものかと感じました。

鈴木
僕自身はそんなに本を読む方ではないのですが、妻が池澤夏樹を好きだったので本棚にあるのを読んでいたんです。自分が書こうとしたときに、頭のどこかで参考にしたんでしょうね。

小川
ちなみに、最近の方法としては、たとえばSkypeを使って話すということもできたんですが、あえて古めかしくも文章のやりとりのほうがゆっくり考える間もとれて良いかと思って往復書簡形式にしてみました。こうして喋るのとはだいぶ違いました?

鈴木
とても違います。小川さんから質問が来たら一週間フルに使って返事を書いていました。だいたいすぐに書けませんよ。かなり難問でしたよ(笑)

小川
(笑)今日このあとの店はおごります。

鈴木
「さらっと書いてますね」なんて言われることがあるのですが、全然そんなことはなくて。 自分のなかで時間をもって、何度か書き直しているんですよ。ただ答えるだけじゃなくて、自分自身がどう考えているのか自分で確認するような作業になっていました。それでかなり時間を使っていて、質問が届くたびに妻に「来たよ。どうしよう」と言いながら書いていました。

小川
僕は前ふりだけなので文章は短くてよいですし、ほかのメンバーと相談したりしながら、1年分の質問をある程度考えていたので気楽でしたけどね。
とはいえ、鈴木さんからの返事を読んでから次の質問を決めていました。第6回で、お母さんから手紙をいただきましたよね。実家の方はどう思っているのか聞いてみたいと思ってはいて、鈴木さんが骨折してお手伝いにお母さんが村に来ているお話を書かれていたので、これはちょっと聞いてみようと。それにしても、お母さんもお話し上手ですよね。 これまたお母さんの手紙がジーンとくるもので。

鈴木
上手と言うより、とにかく話し好きなんですよ。

笑顔を忘れない母

 

親として、子どもとして

 

小川
logueとしては、鈴木さんが新しい土地でデザインの仕事をどうやっていくのかという興味があるし、僕個人ではちょうど育児休暇中ということもあって、子育てのことを聞きたいし、あとは当然知らない土地のことも気になる。4番目くらいでやっと震災のことを聞こうかというモチベーションでした。
それに、何代もつづく家業で、大家族の人に対して僕はあこがれのようなものがあったので、帰るべき「家」ということも気になっていました。今ご実家とのやりとりは多くなったんですか。

鈴木
あまり変わっていない気はします。というのは、東京にいたのが仙台に戻る予定で、それを断念して岡山に引っ越したので、東京の延長という感覚のままなんです。でも、親からしたらかなりの変化というか、落胆したんだろうなとは思っています。母は大家族で育って、自分がお祖母さんになるときには孫たちと暮らしているのが当たり前だと思っていたでしょうし、望んでいたでしょうから。それが僕ら子ども達は3人とも東京に出て、そのなかでやっと僕が子どもを連れて仙台に戻ってくることになった矢先だったので、あの手紙に書いてあるよりずっと落ち込んでいると思います。本人は言いませんけどね。
僕ら兄弟のなかで子どもがいるのは今のところ僕だけなんです。それもあってか僕のところにはよく電話が来て。親の立場の話がわかる相手として僕が一番言いやすいのかなと。

田んぼはまだ作付けはできない

小川
ちょっと切ないですね……今の話で、今日出張で欠席している菊地からの質問を思い出しました。余震も落ち着いて一応は原発のことも小康状態になったし、もう仙台に戻ってきても良いかなと思うことはありませんか?との質問です。

鈴木
うーん、仙台には当分もどらないというのが率直な気持ちです。ひとつには放射能の問題が我が家ではまだ収束していないということ。もうひとつには以前書きましたが、新しい環境で暮らしてみて、僕以上に、同じ大学出身で物づくりをしていた妻にとって良い土地であること。
西日本へ移住するということは東京からの避難ではあったのですが、僕も妻もただ避難するだけとはしたくなかったんです。東京ではできなかった新しい暮らし方をやってみたかった。妻は染めと織を本格的にやっていこうというなっているので、今仙台に帰るときではないなと。

小川
前回の手紙で書かれていましたが、お子さんの進学が一区切り?

鈴木
上の子が今8歳。村には高校がないんですよ。1時間半くらいかけたら通えるところもあるらしいのですが。僕らの家庭からすると、絶対に離れられないとか、そこまでの強制力が土地にあるわけではないので。すると子どもの高校進学がひとつのタイミングになるかなと。それが岡山の高校である必要はないし。正直まだまったく考えていません。7年先だし。

柿崎
僕も子どもがいるのですが、今回の引っ越しはお子さんたちにはどう話したんですか?

鈴木
妻が西粟倉村へ下見に行ったときに、晴れやかな声で電話が来たんですね。その様子を子ども達も見ていたので、話をしたときには「行きたい!」と言ってくれました。それで僕らも安心して引っ越しする決断をしました。
放射能のことで親たちに結構ストレスがたまっていたので、子どもがそれを察したところはあったと思います。東京の水道から放射性物質が検出されて、ある意味パニックになって、妻が子どもの学校に情報開示をもとめて出かけていったりして、子どもたちも心配したでしょうから。それに、もともと上の子は仙台の小学校に入る手続きをしていたのに、地震でそれが中断しただけなので、彼自身も東京から移るつもりでは過ごしていたのでしょう。
前に書きましたが、一番の変化は、上の子どもが生き物を怖がらなくなったことで、そういうこともふくめて望ましい変化だなと思っています。

家に迷い込んだ小鳥を逃がす 生き物に触ることに抵抗がなくなった

 

働き方の変化

 

小川
この1年で変化したことと、変化しなかったこと、もしくは予想外に変化しなかったことは何ですか?

鈴木
予想以上に変化しなかったことはお金の稼ぎ方ですね。デザインをしてお金をもらうというのは東京にいるときから変わらないし、新規のお客さんとまだあまりやりとりしていないので。田舎にいてもあまり仕事の仕方は変わらないというか、変わらなすぎて悔しい。

小川
岡山県内の仕事はこの1年でできました?

鈴木
いまのところ1件だけですね。あと香川に1件。まだ今まで通りのお客さんがほとんど。

柿崎
稼ぐのは東京で住むのは地方というのはありますが、クリエイターと言われる仕事だとたしかに関係ないかもしれませんね。肝心なのは納品方法だと思うので、それが変わらなければ変わらない。本人の心持ちもありますが。
それを変えたいという気持ちはありますか?

鈴木
変えたいです。デザインの仕事でお金をもらうというのは自分が望んでいたことなので良いのですが、働くことと生活することを切り離したくないという思いもあって、お金を稼ぐためだけの仕事にはしたくない。ネットのおかげでどこでも仕事はできるようになりましたが、それだけで良いのかなと。住むというのは物理的なことなので、食べるものや通う場所が変わるはずで、それが仕事や生きることそのものに影響するはずですし。単に僕が地元への営業を怠った1年というだけなんですけど。それに甘んじていたのはもったいないなと思っています。西日本で仕事を拡げるとか、廃業して就農しますというようなことではないけれども、 デザイン以外の仕事もやってみるとか。

柿崎
ところで、さきほどの新規のお客さんはどうやって仕事になったんですか?

鈴木
紹介ですね。個人経営のパン屋さんと作家さん。どちらも震災と原発のことで避難してきていて。Facebook上で知り合ったのだったかな。パン屋さんは知り合って、実際にあって、ウェブをつくりたいというので。香川の方はもともと葉山に住んでいた作家さんで、妻が知り合いだったのが、避難してきたタイミングで話をしていてウェブをつくりたいというので。どちらとも自分から営業したわけではないですね。

柿崎
村の人からデザインの仕事を相談されたり頼まれたりしますか。

鈴木
ようやくでてきました。行ってみて気がついたのは、村の人たちからすると、デザイナーという職業は認識の外にあるんですよ。お金を稼ぐという働き方のなかで、フリーで稼ぐという感覚が本当になくて、人口1600くらいだと、土建屋か役所か病院が主な働き口なんですね。そもそも会社員ではない段階で、何をしているのだろうと。
それが最近少し変わって、近くの土建屋さんがウェブを作りたいとか。1年ほど住んでみて、どうやら鈴木さんはお金を稼ぐ手段としてデザインの仕事を持っているらしいと。
どんどん過疎化が進んでいる地域ではあるので、役場の人はなんとか人を呼び込みたいと考えていて、しかし、いざ引っ越してきても働き口がないので、「鈴木さんみたいなフリーの人はどうやって生活しているんですか? 自分で稼ぐ人はどうやって呼び込んだら良いんですか?」とは聞かれます。僕はずっとフリーでやってきたので、そういう人が世の中にはいるんだということからお話しするのが、つい最近ですね。

柿崎
そういう話をして、役場の方はどういう反応ですか?

鈴木
ピンときていないというのが実感です(笑) たとえば、具体的な施策をどうするかという話で、70件ある空き家を全部開放してくださいと。好きな人からみたら良い物件ですよね。でも、いざ貸すかというと貸さないんですね。家主さんたちは、息子たちが帰ってくるかもしれないから貸さないとか、知らない人には貸さないとか。不動産屋がひとつもない土地ですから、信頼関係でしか成り立たない。縁もゆかりもない人には貸さないというところがあるんですね。役場としては村営住宅をつくったりするのですが、そこにわざわざ住みたくて来る人はいませんよ。

酒井
人のつながりで岡山に行かれたわけですが、たとえば、違う場所とか職業を変えて、これまでのつながりから完全に離れてみるという選択肢はありましたか?

鈴木
職業まで変える選択肢は考えていませんでしたね。というのは、お金を稼ぐ方法としては今の仕事はパソコンさえあればどこでもできるので、職業を変えるまでのリスクはとらずに、いままでのお客さんにも変わらず仕事をしますと行って引っ越しましたから。
自分のやってきた仕事ゆえに動きやすかったというのはあると思います。

西粟倉の自宅にて しばらくはこの地での暮らしが続く

 

夜道の怖さを知る

 

小川
引っ越して1年くらい経ち、地元の知り合いはどのくらいできましたか?

鈴木
子どもがいるので、学校や保育園で親のつながりで知り合うことができました。全校生徒60人の学校だと、PTAでなにかしらやらないといけないんですよ。そういう意味では、単身者がIターンで入るのとは違いますね。

小川
たしかに、僕も昨年一年間で子どもを介してつながる関係は実感しました。一人で歩いていたら声をかけにくいタイプとよく言われますが、子どもを連れて歩くようになってからいろんな人に話しかけられましたから。
ところで、村では飲む機会がないと書いていましたが、本当にないんですか。

鈴木
本当にないです。村内の友人宅へ行くにも車が必要で、あいにく妻は免許を持っていないので。それに暗くなったら外に出歩けません。鹿とか熊とかでますから。
村に一軒だけ居酒屋があるのですが僕はまだ行ったことがない。なぜなら飲んだら帰れないから。タクシーは村に一軒あるのですが、原則予約制で、夜は走らない。東京にいるときなら気にせず飲んだのに、それだけが悔しいですね。僕が住んでいる家のまわりには、若い世代がいないので、飲むとなったら泊まり込みくらいの気合いがないといけないのですよ。

小川
自転車で帰ったらどうですか。

鈴木
熊が出るから本当にだめなんですよ。それに夜は本当に暗いですから。9時過ぎたらおじいちゃんおばあちゃんたちは寝ちゃいますから家の電気もついていない。暗いというのは怖いなとあらためて思いますよ。外に出ようと思わない。

 

(2012年10月19日 仙台にて 協力:カフェ・ギャルソン)