coresspondence: 鈴木宏平 06

2012年 04月 3日   /   correspondence
太いもので150年分の年輪があった

To: 鈴木宏平

From: 小川直人

 

3月も最後の週となったところでこれを書いています。三寒四温、春一番、そして花粉症(それほどひどくありませんが例年かかります)など、時に困ったなと思いつつ待ちわびていた季節の変わり目を感じさせる変化と、4月にむけての事務処理をこなしたり、保育所で使う品々に名前を書いたりという慌ただしさがまじりあう毎日です。 正月が「新年の抱負」なら、4月は「新年度の計画」。学校や仕事など、どこか具体的な物事が動きだす予感がします。 そのうち大学が秋入学になって、春が出会いや別れの季節の代名詞として語られるのも懐かしいことになるかもしれませんが。鈴木さんは新年度の計画を立てていますか。自営業だとあまりそういう区切りはないのかな?

それと、前回のやりとりで写真を受け取ったときにふと思ったことなのですが、仙台のご実家とは最近どんなことをお話ししていますか。本来の予定では、という言い方は人生においてはあまり意味をなさないと僕は思っているけれど、本来の予定からすれば、鈴木さん一家が西粟倉村に引っ越すというのは、鈴木さんにとって大きな変更であったのと同じくらい、ご実家にとっても大きな変更であったのではないかと。前回の写真でお母様の笑顔をみてなんだか気になっていました。

 


To: 小川直人

From: 鈴木宏平

 

よく晴れた日の朝は、淹れたてのコーヒーを片手に庭を散策しています。冬の間身を覆っていたダウンジャケットを着ることもなく、玄関から裏の畑に向かう途中、縁側の前に植えられた梅はもう蕾が開き鮮やかな濃いピンクの花を咲かせています。朝から賑やかな子どもたちをそれぞれ車で送った後、その代わりを務めるように今度は鶯がその鳴き声を谷中に響かせています。耡(うな)った畑の土からミミズと一緒に現れた濃厚な土の香りを嗅ぐと、冬の間凍てつき固まっていた土も空気も光も、あらゆるものがまさに融けて広がっている様子を実感します。
この山間の小さな村にも春が来ました。

4月となり新年度が始まったことで、長男が小学2年生、次男が保育園入園(これまでは正式な入園ではなく、一時保育を毎日という便法でした)となりました。フリーランスのデザイナーとしては年度の意識は希薄ですが、子どもたちの行事が区切りを伝えてくれる生活がここ数年続いています。村で普段見慣れない黒いスーツを来た人たちを見かけてから、それが新入社員の方々と気付くまでにかかった時間が、僕の意識の低さを物語っています(ちなみに仙台は大きな街なので新入社員や新入生など、新しい生活を始めた人々でしばらくは賑やかな状態でしょう。『村』に住んだことであれは人の流れに動きがある表れなんだと気付きました)。

子どもの学年が上がると、教育という制度によって受ける授業が当然変わります。例えば漢字ならば1年生までは80字、2年生は160字、3年生は……その分だけ知識を身につけ成長していくさまが見て取れますが、自分の子どもに限っていえば、彼が描く絵もまた、教育とは異なる物差しでの成長が見えておもしろいものです。

彼の『将来の夢』は封筒屋さんになることらしく、その職業は自分が描いた絵を型に合わせてトリミングし、それで作られた封筒を販売するというもの。目標1,000枚が在庫できた段階で開店する予定で、現在は43枚制作済み。
この夢は1年半程前(まだ幼稚園児の頃)から具体的になっていて、その制作ペースの遅さはさておき(作っては祖父母に手紙を出したり友達にあげてしまうため)、実際に描く絵が1年半でも変わってきています。使う画材は水彩やコピック、クレヨン、クーピーとまちまちだが、始めた頃のただがむしゃらに頭の中のイメージを紙に載せることから、モチーフを決めて模写をするようになり、写そうとすることで、モチーフと自分の絵の間で悩む。うまく描けないと苦悩する。
親として「うまく描こうとするな」と伝えてきたはずですが、彼の中ではもう描く先の評価を気にしているのかと訝しんでしまいます。作ること自体を楽しんでいたはずが、いつの間にか作った先の他者(現段階では褒められることでしょうが)が気になり、絵を描くことが目的から手段に変わってしまっている状況。そんな葛藤が彼の絵から感じられてしまうのです。
大人になる過程で、表現という行為(広義では働くということ)における自己の欲求と社会的評価の葛藤は避けては通れないものですが、一人の親としてはもう少し自分の世界を楽しむ年頃でもいいのにと思ってしまいます。それはきっと『子どもは無邪気なもの』という大人の勝手な勘違い(自分が子どもでいられないための過度な期待。子どもは思った以上に打算的でずる賢い)なのだろうと思いつつも、それでもやはり親である自分のこれまでを超えた生き方をしてほしいと願ってしまいます。

子ども絵を批評するなんて随分親バカな行為と承知しながらも書きましたが、こうした子どもの成長の尺度は各家庭それぞれにあって、親はみな思うところはあるのではないでしょうか(小川さんのお子さんならば、映画はまだ早いだろうから音楽や言葉でしょうか)。

さて、仙台の実家とはスカイプの存在を知らせてからは週に一回程度会話をするようになりました。
先日『いぐね』のほとんどを切ったとの知らせを受けました。『いぐね』とは仙台の古い農家にはつきものの屋敷を囲む防風雪林です。津波の被害で土壌の塩分濃度が極度に上がり、多くの木々が立ち枯れしてしまったため、倒木の二次被害を防ぐための行政施策です。いぐねの中でも最も樹高の高い杉の根元には代々受け継がれた外神様があり、僕をふくめ子どもたちが小さな頃から正月の朝晩は餅とご飯を供えに歩いたものです。夜は鬱蒼と茂った林の中、寒さと暗い恐ろしさから足早にお供え物をして、後を振り返らぬように逃げ帰ったのを思い出します。昔から家を守ってきた林がなくなった様子を写真で見せられ、随分と悲しそうに話していたのを思い出します。

左が震災前、右が伐採後

外神様 まわりの神木はもうない

さて、前回の母の写真から思わぬ展開ですが、小川さんのご質問に母本人から手紙で回答してもらったので、今回の往復書簡に飛び入り参加で母の書簡を。

 

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母:美枝子からの便り

 

昨年の夏、息子から電話で、「放射能が心配だから、岡山に引っ越すから」と言われた時、「どうして岡山なの、青森も、北海道もあるでしょう」と言いました。岡山は遥かむこう、それなら少しでも近くて、仙台よりは安全な所と思い、咄嗟にそう言いました。息子は「どうしても近くに住まわせたいの。もう決めたから」と言いましたが、その時自分でも驚く位あっさりと、「いいよ、岡山でも、地球の裏側でも、お母さんどこにでも会いに行くから。お母さんは、あなたたち家族が元気でいれば、それでいいから」と言いました。

本当なら、去年の三月末に家族四人で仙台に引っ越して来て、賑やかに暮らす予定でした。それが、あの3月11日の大震災により、今すぐ住める環境ではないことが分かり、引っ越して来なくなった段階で、もう諦めていたのかもしれません。

あれから1年が過ぎ、時々、自分の老後はこんなに静か過ぎて、寂しい暮らしになろうとは想像もしなかったなあと思う時があります。
でも、うれしいことに、岡山にいる息子夫婦も、私達が寂しがっていることをとうに察して、スカイプで孫と話しをする時間をたびたびつくってくれたり、岡山に呼んでくれたりと気を使ってくれています。もし、無理して仙台に来てもらい、10年後、20年後の息子家族の健康に憂いていたら、今よりずっと、辛い日々を送っていたかもしれません。

いまだに余震が東日本の広範囲にわたって人々を脅かしているこの頃、やはり子どものことを思っての息子夫婦のとった行動は正しかったと思っています。どこに住んでも、お互い元気でいる事が一番です。一日一日を大切に、感謝して生きて行こうと思っています。そのうち、また岡山に遊びに来てと電話がかかってくることでしょう。

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僕は祖父母と両親と3人の兄たちとの8人家族で育ったので、自分に子どもが生まれてからは核家族ではなく祖父母と一緒に暮らす生活を望んでしました。なるべく賑やかな家庭で、ご飯を大家族で食べるのを理想としていたからです。しばらくは祖父母に西粟倉に来てもらうことになりそうです。

この往復書簡も6回目、1年の半分まで来たのですね。残り6回、これからも村での暮らしをお伝えできるのを楽しみしております。