logue » correspondence http://project-logue.jp Sun, 26 Apr 2015 13:12:45 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.1.40 correspondence: 鈴木宏平 12(最終回) http://project-logue.jp/?p=603 http://project-logue.jp/?p=603#comments Sun, 04 Nov 2012 04:15:50 +0000 http://project-logue.jp/?p=603 1年を経て最終回となる今回は、ひさしぶりに鈴木さんと顔をあわせてお話しすることにしました。当初は西粟倉村へ行こうとしていたのですが、偶然にもその予定に重なるように彼が仙台へ来ることになったため、それでは他のメンバーもまじえて話を聞こうということになり、いつも聞き手であった小川のほか、柿崎、酒井も一緒の場となりました(菊地と鹿野は出張中)。


 

書いて語ること

 

小川
今日のためにこれまでの11回分を読み返してみたんですが、今更ながら思ったのが、鈴木さんは毎回の質問をどう受け止めていたのだろうかと。この11回のなかで僕が迷いつつ尋ねたことがふたつあって、ひとつは3月11日のこと、もうひとつは放射能のことです。この往復書簡を始めようと思ったときに、毎回震災にからんだ話ばかり聞くのは止めようと。震災をめぐるメディアの描き方になんとなく疑問があってはじめたわけで、生活全般のことを聞こうとしていました。

鈴木
実は毎月びくびくしていました(笑) 下手な文章を書けないなあというプレッシャーがすごかった。  だいたい20日すぎに小川さんからFacebookにメッセージが届きますよね。23日あたりでもメッセージが来ないと少しホッとするんです。「まだ来てないぞ」と。それが27日ごろにくると「来たー」と。不特定多数の読者を意識した文章を書くのがはじめての経験でしたからね。本当に手探りでした。

小川
最初の返信をもらったときに、素直に文章が上手だなあと思いましたよ。以前一度お会いしたときに、池澤夏樹の愛読者だと聞いて、僕もその一人でしたから、なるほど文体上の親しみやすさというものがあるものかと感じました。

鈴木
僕自身はそんなに本を読む方ではないのですが、妻が池澤夏樹を好きだったので本棚にあるのを読んでいたんです。自分が書こうとしたときに、頭のどこかで参考にしたんでしょうね。

小川
ちなみに、最近の方法としては、たとえばSkypeを使って話すということもできたんですが、あえて古めかしくも文章のやりとりのほうがゆっくり考える間もとれて良いかと思って往復書簡形式にしてみました。こうして喋るのとはだいぶ違いました?

鈴木
とても違います。小川さんから質問が来たら一週間フルに使って返事を書いていました。だいたいすぐに書けませんよ。かなり難問でしたよ(笑)

小川
(笑)今日このあとの店はおごります。

鈴木
「さらっと書いてますね」なんて言われることがあるのですが、全然そんなことはなくて。 自分のなかで時間をもって、何度か書き直しているんですよ。ただ答えるだけじゃなくて、自分自身がどう考えているのか自分で確認するような作業になっていました。それでかなり時間を使っていて、質問が届くたびに妻に「来たよ。どうしよう」と言いながら書いていました。

小川
僕は前ふりだけなので文章は短くてよいですし、ほかのメンバーと相談したりしながら、1年分の質問をある程度考えていたので気楽でしたけどね。
とはいえ、鈴木さんからの返事を読んでから次の質問を決めていました。第6回で、お母さんから手紙をいただきましたよね。実家の方はどう思っているのか聞いてみたいと思ってはいて、鈴木さんが骨折してお手伝いにお母さんが村に来ているお話を書かれていたので、これはちょっと聞いてみようと。それにしても、お母さんもお話し上手ですよね。 これまたお母さんの手紙がジーンとくるもので。

鈴木
上手と言うより、とにかく話し好きなんですよ。

笑顔を忘れない母

 

親として、子どもとして

 

小川
logueとしては、鈴木さんが新しい土地でデザインの仕事をどうやっていくのかという興味があるし、僕個人ではちょうど育児休暇中ということもあって、子育てのことを聞きたいし、あとは当然知らない土地のことも気になる。4番目くらいでやっと震災のことを聞こうかというモチベーションでした。
それに、何代もつづく家業で、大家族の人に対して僕はあこがれのようなものがあったので、帰るべき「家」ということも気になっていました。今ご実家とのやりとりは多くなったんですか。

鈴木
あまり変わっていない気はします。というのは、東京にいたのが仙台に戻る予定で、それを断念して岡山に引っ越したので、東京の延長という感覚のままなんです。でも、親からしたらかなりの変化というか、落胆したんだろうなとは思っています。母は大家族で育って、自分がお祖母さんになるときには孫たちと暮らしているのが当たり前だと思っていたでしょうし、望んでいたでしょうから。それが僕ら子ども達は3人とも東京に出て、そのなかでやっと僕が子どもを連れて仙台に戻ってくることになった矢先だったので、あの手紙に書いてあるよりずっと落ち込んでいると思います。本人は言いませんけどね。
僕ら兄弟のなかで子どもがいるのは今のところ僕だけなんです。それもあってか僕のところにはよく電話が来て。親の立場の話がわかる相手として僕が一番言いやすいのかなと。

田んぼはまだ作付けはできない

小川
ちょっと切ないですね……今の話で、今日出張で欠席している菊地からの質問を思い出しました。余震も落ち着いて一応は原発のことも小康状態になったし、もう仙台に戻ってきても良いかなと思うことはありませんか?との質問です。

鈴木
うーん、仙台には当分もどらないというのが率直な気持ちです。ひとつには放射能の問題が我が家ではまだ収束していないということ。もうひとつには以前書きましたが、新しい環境で暮らしてみて、僕以上に、同じ大学出身で物づくりをしていた妻にとって良い土地であること。
西日本へ移住するということは東京からの避難ではあったのですが、僕も妻もただ避難するだけとはしたくなかったんです。東京ではできなかった新しい暮らし方をやってみたかった。妻は染めと織を本格的にやっていこうというなっているので、今仙台に帰るときではないなと。

小川
前回の手紙で書かれていましたが、お子さんの進学が一区切り?

鈴木
上の子が今8歳。村には高校がないんですよ。1時間半くらいかけたら通えるところもあるらしいのですが。僕らの家庭からすると、絶対に離れられないとか、そこまでの強制力が土地にあるわけではないので。すると子どもの高校進学がひとつのタイミングになるかなと。それが岡山の高校である必要はないし。正直まだまったく考えていません。7年先だし。

柿崎
僕も子どもがいるのですが、今回の引っ越しはお子さんたちにはどう話したんですか?

鈴木
妻が西粟倉村へ下見に行ったときに、晴れやかな声で電話が来たんですね。その様子を子ども達も見ていたので、話をしたときには「行きたい!」と言ってくれました。それで僕らも安心して引っ越しする決断をしました。
放射能のことで親たちに結構ストレスがたまっていたので、子どもがそれを察したところはあったと思います。東京の水道から放射性物質が検出されて、ある意味パニックになって、妻が子どもの学校に情報開示をもとめて出かけていったりして、子どもたちも心配したでしょうから。それに、もともと上の子は仙台の小学校に入る手続きをしていたのに、地震でそれが中断しただけなので、彼自身も東京から移るつもりでは過ごしていたのでしょう。
前に書きましたが、一番の変化は、上の子どもが生き物を怖がらなくなったことで、そういうこともふくめて望ましい変化だなと思っています。

家に迷い込んだ小鳥を逃がす 生き物に触ることに抵抗がなくなった

 

働き方の変化

 

小川
この1年で変化したことと、変化しなかったこと、もしくは予想外に変化しなかったことは何ですか?

鈴木
予想以上に変化しなかったことはお金の稼ぎ方ですね。デザインをしてお金をもらうというのは東京にいるときから変わらないし、新規のお客さんとまだあまりやりとりしていないので。田舎にいてもあまり仕事の仕方は変わらないというか、変わらなすぎて悔しい。

小川
岡山県内の仕事はこの1年でできました?

鈴木
いまのところ1件だけですね。あと香川に1件。まだ今まで通りのお客さんがほとんど。

柿崎
稼ぐのは東京で住むのは地方というのはありますが、クリエイターと言われる仕事だとたしかに関係ないかもしれませんね。肝心なのは納品方法だと思うので、それが変わらなければ変わらない。本人の心持ちもありますが。
それを変えたいという気持ちはありますか?

鈴木
変えたいです。デザインの仕事でお金をもらうというのは自分が望んでいたことなので良いのですが、働くことと生活することを切り離したくないという思いもあって、お金を稼ぐためだけの仕事にはしたくない。ネットのおかげでどこでも仕事はできるようになりましたが、それだけで良いのかなと。住むというのは物理的なことなので、食べるものや通う場所が変わるはずで、それが仕事や生きることそのものに影響するはずですし。単に僕が地元への営業を怠った1年というだけなんですけど。それに甘んじていたのはもったいないなと思っています。西日本で仕事を拡げるとか、廃業して就農しますというようなことではないけれども、 デザイン以外の仕事もやってみるとか。

柿崎
ところで、さきほどの新規のお客さんはどうやって仕事になったんですか?

鈴木
紹介ですね。個人経営のパン屋さんと作家さん。どちらも震災と原発のことで避難してきていて。Facebook上で知り合ったのだったかな。パン屋さんは知り合って、実際にあって、ウェブをつくりたいというので。香川の方はもともと葉山に住んでいた作家さんで、妻が知り合いだったのが、避難してきたタイミングで話をしていてウェブをつくりたいというので。どちらとも自分から営業したわけではないですね。

柿崎
村の人からデザインの仕事を相談されたり頼まれたりしますか。

鈴木
ようやくでてきました。行ってみて気がついたのは、村の人たちからすると、デザイナーという職業は認識の外にあるんですよ。お金を稼ぐという働き方のなかで、フリーで稼ぐという感覚が本当になくて、人口1600くらいだと、土建屋か役所か病院が主な働き口なんですね。そもそも会社員ではない段階で、何をしているのだろうと。
それが最近少し変わって、近くの土建屋さんがウェブを作りたいとか。1年ほど住んでみて、どうやら鈴木さんはお金を稼ぐ手段としてデザインの仕事を持っているらしいと。
どんどん過疎化が進んでいる地域ではあるので、役場の人はなんとか人を呼び込みたいと考えていて、しかし、いざ引っ越してきても働き口がないので、「鈴木さんみたいなフリーの人はどうやって生活しているんですか? 自分で稼ぐ人はどうやって呼び込んだら良いんですか?」とは聞かれます。僕はずっとフリーでやってきたので、そういう人が世の中にはいるんだということからお話しするのが、つい最近ですね。

柿崎
そういう話をして、役場の方はどういう反応ですか?

鈴木
ピンときていないというのが実感です(笑) たとえば、具体的な施策をどうするかという話で、70件ある空き家を全部開放してくださいと。好きな人からみたら良い物件ですよね。でも、いざ貸すかというと貸さないんですね。家主さんたちは、息子たちが帰ってくるかもしれないから貸さないとか、知らない人には貸さないとか。不動産屋がひとつもない土地ですから、信頼関係でしか成り立たない。縁もゆかりもない人には貸さないというところがあるんですね。役場としては村営住宅をつくったりするのですが、そこにわざわざ住みたくて来る人はいませんよ。

酒井
人のつながりで岡山に行かれたわけですが、たとえば、違う場所とか職業を変えて、これまでのつながりから完全に離れてみるという選択肢はありましたか?

鈴木
職業まで変える選択肢は考えていませんでしたね。というのは、お金を稼ぐ方法としては今の仕事はパソコンさえあればどこでもできるので、職業を変えるまでのリスクはとらずに、いままでのお客さんにも変わらず仕事をしますと行って引っ越しましたから。
自分のやってきた仕事ゆえに動きやすかったというのはあると思います。

西粟倉の自宅にて しばらくはこの地での暮らしが続く

 

夜道の怖さを知る

 

小川
引っ越して1年くらい経ち、地元の知り合いはどのくらいできましたか?

鈴木
子どもがいるので、学校や保育園で親のつながりで知り合うことができました。全校生徒60人の学校だと、PTAでなにかしらやらないといけないんですよ。そういう意味では、単身者がIターンで入るのとは違いますね。

小川
たしかに、僕も昨年一年間で子どもを介してつながる関係は実感しました。一人で歩いていたら声をかけにくいタイプとよく言われますが、子どもを連れて歩くようになってからいろんな人に話しかけられましたから。
ところで、村では飲む機会がないと書いていましたが、本当にないんですか。

鈴木
本当にないです。村内の友人宅へ行くにも車が必要で、あいにく妻は免許を持っていないので。それに暗くなったら外に出歩けません。鹿とか熊とかでますから。
村に一軒だけ居酒屋があるのですが僕はまだ行ったことがない。なぜなら飲んだら帰れないから。タクシーは村に一軒あるのですが、原則予約制で、夜は走らない。東京にいるときなら気にせず飲んだのに、それだけが悔しいですね。僕が住んでいる家のまわりには、若い世代がいないので、飲むとなったら泊まり込みくらいの気合いがないといけないのですよ。

小川
自転車で帰ったらどうですか。

鈴木
熊が出るから本当にだめなんですよ。それに夜は本当に暗いですから。9時過ぎたらおじいちゃんおばあちゃんたちは寝ちゃいますから家の電気もついていない。暗いというのは怖いなとあらためて思いますよ。外に出ようと思わない。

 

(2012年10月19日 仙台にて 協力:カフェ・ギャルソン)

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correspondence: 鈴木宏平 11 http://project-logue.jp/?p=592 http://project-logue.jp/?p=592#comments Mon, 03 Sep 2012 12:48:27 +0000 http://project-logue.jp/?p=592 To: 鈴木宏平
From: 小川直人

8月も末というのに、仙台ではまだ猛暑という言葉がふさわしい暑さが続いています。仙台は比較的すごしやすい気候とはいえ、僕は暑いのが苦手で連日バテ気味です。暑さに耐えられず、ここしばらく長くしていた髪も切ってしまいました。
さて、この往復書簡も11回目。全12回を予定していますから、僕からの質問は今回と最終回を残すのみとなりました。最終回は少し趣を変えたいと思っています(先日話したあれです。これを読んでいるみなさんには来月お伝えします)。すると、こんなかたちで質問するのは実質これが最後かと。
というわけで最後かもしれない質問です。鈴木さんは、西粟倉村でのくらしの終わりを考えていますか。たとえば、あと何年たったら引っ越ししようとか、農業の基本を学んだら仙台に戻ってこようとか。そんなこと考えていないかもしれません。もし考えていたとして、引っ越しを決めた当初と今では変わっているかもしれません。だいたいにして、誰と約束するというものでもないでしょう。
何かをはじめるとき、終わりのことを考えるのが常に正しいことなのかどうかという疑問はありますが、終わりを想像してみることは、今を見つめる視座にはなると僕は思うのです。


To: 小川直人
From: 鈴木宏平

南西に向いた我が家の食卓の窓からは谷向かいの尾根とその先に広がる空が見えます。その窓側が次男の席なので、食事時には息子にご飯を食べさせながらよく景色を眺めています。
2年前に他界した祖父がまだ現役の頃、畑仕事を手伝っているとよく空を見上げていたのを思い出します。
「こうちゃん、そろそろ雨が降るね」
「そろそろ一服にしようか」
「お昼ご飯だから家に帰ろうか」
天候と土を相手にする農業を生業とした祖父は、時計など持たずに空と空気と自分の体を見つめながら黙々と仕事をこなしていました。そうした祖父への憧れからか、夕食のとき空の明るさを見て時刻を言い当てるのが僕の密かな楽しみですが、ここ最近の日没の早さに夏の終わりを感じずにはいられません。日中はまだ暑さを感じても、日が暮れれば早くも秋の気配、コオロギ達がカエルの座を奪い庭で大合唱を始めました。これまで寝るときも全て網戸で解放していた窓も、肌寒さから夜は閉めるようになり薄手のタオルケットが必要な季節です。
ここ西粟倉では早くも稲刈りが始まりました。実家の田んぼでは毎年9/20前後と相場が決まっていましたが、、8月末にコンバインが村内を駆けている風景はそれだけ西の地に越してきたんだなと実感させられます。
それにしても、あの稲刈りの季節の空気は何と心地いいのでしょう。涼しくなった風にはもう夏場の蒸れるような湿度はなく、かといって冬の乾いた空気でもなく、刈り取った稲と露になった湿った土の混じり合った香りを運んでくれます。小さな頃から稲刈りは家族総出の行事で、まだ自然乾燥をしていた頃は刈り取った稲を畦に建てた木の杭に掛けていく作業が子どもたちの担当でした。束になった稲を両手で抱えたその量感や稲に負けてひりひりと痛む肌、手伝いを忘れて追いかけ回したカマキリやイナゴ。種籾から約半年掛けて育てた稲が米となって収穫出来る歓び。そして初めて食卓に出た新米のおいしさ。
この村の稲刈りの風景が、子どもの頃からの懐かしい思い出を呼び、そしてその全てが今は失われてしまっている悲しさをもたらしました。僕はいつ仙台に帰るのだろうか。

1年で子どもは大きく成長した

それにしても、今年は存分に夏を満喫しました。東京にいた頃は毎年お盆前後を長めに仙台に帰省していましたが、それがなかった分、夏休み中の長男を連れて毎週鳥取の海へ通い、人の少ない(東京はもちろん、仙台の海よりも断然に海水浴客は少ない)浜辺で遊び、釣りをするのが週末の務めのようでした。お盆前には長男の幼稚園からの友達が東京から一人飛行機に乗って我が家に遊びに来てくれて、海へ川へと連れ回したのですが、子どもたちはそれはもう楽しくてしょうがないといった状態で、谷中に笑い声を響かせていました。
そんな二人を見ていると、子ども時代の友人関係というのはいつまで続くのだろうかと考えてしまいます。自分の交友録を振り返ってみれば、友人関係というのは常に更新されていって、大学時代で一旦ピークを迎えるような気がします。小学校時代の友人と会うのはたまの同窓会程度。社会人となってからはなかなか「友達」と素直に言える関係を築くのが難しい(共に過ごす時間の長さか、利害関係を考えてしまう後ろめたさか)。とはいえ、いまだに連絡を取り合い、仙台に帰れば必ず会う友人もいて、互いの近況を語り合うこともしばしばあります。大人になってからも続く友人関係とは、お互いが何かしらの魅力を感じる相手だからこそ続くものなのでしょう。
楽しそうにはしゃいでいる二人を見ていて、その関係がずっと続いていくのか、いつか連絡も取らない過去の人となるのか、結局は二人の関係であり親はただ見守るしかないのですね(と思っても、どうせなら末永く付き合いが続けばいいのに期待してしまうのですが)。

この往復書簡を始めて今回で11回、最終回は特別編ということで、実質の最後の返信となります。
一回目はまだ僕は引っ越し前の準備段階でしたね。多くの不安と少しの期待、そして東京から離れる安堵を胸にこの書簡を書き始めました。8月20日をもって我が家の西粟倉での生活が一年を迎えましたが、この村での生活の終わりはまだ決めていないのが正直なところです。
それでもひとつの目安となるのが長男の高校進学のタイミングです。子育ての時期を田舎で(仙台の実家で)過したいと夫婦共通の想いだったので、現状は予定は変われど理想の状況に近いと言えます。ですが、今度は田舎ならでは問題として高校以降の進学先が遠く、選択肢が少ないという現実もあります。何も高校進学や大学進学が全てじゃないという考えもありますが、それも含めて選択肢を提供するのが親の務めである以上、選べない状況に置きたくはない。ならばどうするか。

農業に関してはいくら農家の育ちといえど全くの素人で、今年がまさに一年生の年でした。春先から少しずつ土を耕し種を蒔き夏野菜の収穫となりましたが、結果はやはり散々でした。立派に育ってくれたのはささぎ・インゲン・キュウリ・カボチャ・ゴーヤとハーブ達。今朝も大きくなり過ぎたキュウリを収穫しながら、一粒の種からこんなにも実をつける野菜の底力に感心しつつ、その料理法に頭を悩ませる日々が続いています。植物達は人間の都合を考えもせず、ただ生きて子孫を残すことに真っ直ぐなんですね。
まずは野菜からと始めたこの道は、なかなかに時間が掛かりそうです。

夏の野菜は毎日が収穫期

そして、この村に来て変わったこと。大学時代にテキスタイルを学んだパートナーは、学生結婚をしたときからこれまでの8年間を二人の子育てに費やしてきました。いつかまた『自分で染めた糸で布を織る』という夢は、この村に来たことで漸く花開こうとしています。草木染めの原料となる杉や檜を筆頭に多くの植物が村内の山に生えています。源流の村といわれるように、豊富な山水があり身近な材料でものづくりを始める土壌がここにはありました。
8月は毎週講師として山向こうの地域で草木染めのワークショップに呼ばれ、改めて手仕事の魅力に没頭しています。生きていくためにはお金を稼がなくてはなりませんが、その方法は選択できるはずです。暮らしの中でのものづくり。その先にある、目的としたお金ではなく交換手段の結果としてのお金を得る。その理想の実現のため、草木染めのものづくりを始めました。そうなると、余計にこの村への魅力を感じ、ここでやりたいことが増えてきたので、ますますいつまで住むかという問いには答えられなくなってしまいます。
明確な終わりを決めずに始まったこの生活ですが、日々を積み重ねていった先に、いつかまた区切りが見えて来るような気がしています。

これからの鈴木家の主役

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correspondence: 鈴木宏平 10 http://project-logue.jp/?p=577 http://project-logue.jp/?p=577#comments Fri, 03 Aug 2012 11:35:40 +0000 http://project-logue.jp/?p=577 To: 鈴木宏平
From: 小川直人

前回の手紙を読んでふと素朴な疑問がわきました。鈴木さんは村の外にどれくらい出ているのでしょう? この往復書簡の目的は鈴木さん一家の村での暮らしを聞くということなので、あまり気にしていませんでした(以前仙台に戻ってきてお会いしたときも、ひとしきりビールを飲んで盛り上がっただけでしたし)。
田舎暮らしをしながら東京など大都市のクライアントと仕事をするという生活は、ようやく発見された本質のようでもあるし、相変わらず流行のようでもあり、僕にはまだ評価がさだまらないところです。でも、そういう生活の仕方が選択できるようになったということは良いことだなと思っています。仕事というよりは会社の都合によって、個人の価値観というよりは広告の操作によって生活すべてが決まるよりはずっと良い。なんだかいじめられている子に「学校だけがすべてじゃない」と言っているみたいですが。
話が少しそれました。あらためて今回の質問にしてみると、つまりは生活圏の変化についてです。いろいろなレイヤーが重なり合って日々の暮らしが成り立っていると思いますが、そのレイヤーは数が増えたり、遠くのものがあったりしますか? このlogueでも当初から考えていることで、自分たちが暮らす場所と仕事をする場所や相手の選択肢を拡げることができるようになるのが、いまのテクノロジーやシステムの利点のひとつではないかと思います。こうしてやりとしていることも、鈴木さんと僕にとってはあらたに増えたレイヤーですね。

ところで、今回の質問とは文字通り次元が違う話ですが、レイヤーというのは空間的なものだけではなくて、時間的なものもあるだろうとはよく考えます。歴史と言っても良いし、世代と言っても良いのですが、いま自分がやっていることが、どの未来の誰に向けてなのか見えているかどうかは、仕事や生き方に影響があるはずだろうと思います。でも、大人になって仕事をしているとびっくりするくらいそんな話は出ないものだなと思いました。単にむやみやたらに青臭い議論をしていた学生時代と比較しているだけかもしれません。それは過去や未来について無自覚である批判ではなく、日々を生きるというのは本来その通り日々を生きればよいもので、時々思い出したり思いを馳せてみるくらいがちょうど人間には合っているのではないか、とも思えるようになったからでもあります。


To: 小川直人
From: 鈴木宏平

7月の中盤から今日にいたるまで、こちらは夏の日差しが日々照りつけています。「晴れの国 岡山」とはここ岡山県の標語ですが、東の端に位置する西粟倉村も毎日よく晴れています。それでも昼過ぎには日課のように通り雨がザッと降る。いつも決まって北側県境の山向こうから黒々とした雷雲が流れて来るので、急いで洗濯物を取り込む余裕もある。ついでに畑に水やりもしてくれるので大人にとっては付き合いやすい雨ですが、小学生の息子にとっては丁度学校のプール解放の時間にあたるため、ほとんど中止ばかりだと不満を漏らしています。
息子が夏休みに入ってからは平日の朝ラジオ体操に一緒に参加することになりました。僕が小学生だった頃も眠い目をこすりながら近くの集会所に通ったものです(その頃と同じく、いまだに寝坊してしまうため参加の証明判子を全部揃える目標は早くも断念しました)。集会所に向かう道すがら、普段車で通るところでも自転車の速度で進むと景色が違って見えるからおもしろい。稲穂も随分と膨らみ収穫の日が近づいてきているのを実感します。道沿いの川を眺めては、オオサンショウウオ(この村には天然記念物のオオサンショウウオがいるらしい)や魚がいないか探しているものの、いまだその姿を見ることはかないませんが、朝日を前にして坂道を下るのはそれだけで心地良いものです。自転車は移動距離と景色、ちょっとした運動という一挙三得な移動手段ですね。

生活圏の変化について。
僕をのぞく家族が西粟倉村に越してきて、8月でもうすぐ1年になろうとしています。
自分の生活圏をあらためて考えてみると、「点が増えた」というのが正直な感覚のように思います。日本地図を拡げ、自分にとって関わりのある土地は?と問われれば、迷わず仙台・東京・西粟倉をマークすることでしょう。
仙台:生まれ育った街 最近ご無沙汰
東京:仕事の街 たまに訪れる
西粟倉:今住む場所 暮らしの中心
と付箋に書き込むように。
その作業を続けると、岩手・兵庫・香川・鳥取も今の生活では要付箋。そこから各都市名でマークした場所の解像度を上げていき、その場所の景色やそこにいる人(仕事なら担当者、お店なら販売員、そして友人たち)にまで細分化する。今度はその点から関連する場所と人をマークしていくことで点の密度が上がり、その集合がある一定まで達したときに面と捉えられるように思います。そうすると、現状は越してきてから増えたのはまだ面を形成する前の点であり、これからその点たちが面を作っていく予感といったところです。

そして、時間的なレイヤーといえば、やはりこれまでの生活では無自覚に生きてきたように思います。日々生きることに盲目的であり、むしろその状態を自分の思考停止の隠れ蓑にする。目の前に積まれたタスクをこなすことで日々の生活を実感し、たまに描く夢想は「いつの日か……」と夢想のまま。そんな生活を続けていました。
今もってその状態を続けている面もありますが、越してきたことで変わったと思うところもあります。生活圏を変えたことで暮らし方(仕事を含む)への意識は高まり、まず自分たちはどのように生きていきたいのか、子どもたちに親としてどんな生き方を見せたいのか、そしてどんな大人になって生きていってほしいのかがテーマとなっています。そのために『仕事(=お金の稼ぎ方)』を考えていくと、これからの将来に向けて作り手としてのあり方(誰に、何に、どんな影響がある上でものづくりをするのか)を一つずつ整理している段階です。
無自覚への批判からではなく、自分が行動するために必然的な思考。デジタルデータではなく、物理的な物を扱うからこそ自分なりのぶれない芯を立てる作業となっています。

山村ミーティングは子連れ可 湧き水飲み放題

さて、田舎で暮らすことにも多少は慣れてきたので、ある程度の行動範囲(パターン)が作られてきました。
日々の買い物では、米は村内の道の駅。野菜はご近所さんから旬のもの(最近はじゃがいも・ピーマン・きゅうり等の夏野菜を毎日どう調理するかで我が家の女性陣が奮闘中。たまに僕も参戦しますが)をいただくことも多く、それ以外の野菜は兵庫県にあるスーパーで買うか宅配で注文するか。魚はすべて鳥取港併設の市場にて。肉は隣町の肉屋でたまに買う程度。調味料は相変わらずネットで購入。それ以外の生活雑貨や消耗品はネットか隣町のホームセンターか。「田舎暮らしは買い物が不便では?」という質問をよく受けますが、あまり不便という実感はありません。車移動に慣れてしまったせいでしょうが、距離に対する感覚は東京時代とは随分変わったと思いますし(東京での30km移動は何と遠かったことか!)、そもそも物を買うときにネット通販はよく利用していたので田舎暮らしでもあまり変化はありません。欲しいと思う物こそスーパーでは取り扱っていなかったのは東京も変わらずですね。それでも本屋が遠くの質が落ちるのはやはり残念な点です。気軽に入った書店で一冊の本に出会うということはなくなりました。

娯楽の面では最近は小学生の息子ともっぱら鳥取の海に釣りに出かけています。日の出前の暗いうちに出発したり、夕方から夜にかけて粘ってみたりと連れ回していますが、パートナーには目の前に川があるのだから川で魚を捕ってこい!と叱られながらも通っています。先日は村の友人一家とやはり鳥取の海に海水浴に出かけてきましたが、東京や仙台と比べても驚く程人が数なく、その分だけ子連れでものんびりと楽しんできました。
テレビはもともと無い生活を続けていたので変わりなく、たまに観ていた映画はもっぱらネットレンタルでDVDを借りて見る程度で満足できています。娯楽の面で少々物足りないのがお酒を飲みに行けない、飲みながらの会話がなかなかできないことでしょうか。村内などで新たに出会えた友人とはやはり酒を飲み、じっくりと腰を据えて話してみたいものですし、その会話自体が自分の頭の中にある思考を言語化するトレーニングにもなり、思わぬ発想を生み出す機会にも恵まれます。それがなかなかできない。村内にお店はあっても車の距離で、頑張って自転車でいくと今度は夜間の鹿と熊に遭遇注意となります(大袈裟な話ではなく近所で熊が出没します。鹿は逃げていくが熊はさすがに恐い)。そもそも夜道は街灯も少なく出歩く環境ではないので夜間外出することはあまりなく、その分きれいな星空が残っている土地でもあります。

そして仕事はこれまで通り東京を中心に、岩手・香川・岡山のクライアントと継続してやり取りを続けています。こちらに越してきてから、少しずつですが西日本のクライアントも増えてきたことはありがたいことですが、仕事の進め方は実は相手が東京でも地方でも変わらないのが特筆すべき点かもしれません。
要所要所では出張して打ち合わせることもありますが、それ以外のやり取りは電話・メール・スカイプで行う。そうすると相手が東京でも地方でも進行中の状態では物理的な距離が障害にならなくなってきている。しかし、これは継続しているクライアント案件の場合に限られるようにも思います。新たな取引先や案件を開拓する上では、物理的な距離はまだまだ重要な要因であり、完成品を売る商売ではなく、成果物を一緒に作り上げていく仕事だからこそ、まず初めの信用関係を結ぶ段階では近い方がいいと漠然と思われるような気がします。そのため、僕にとっての仕事の点は西日本に増える(増やしていく)ことになるでしょう。

ノマドワークという働き方が認知されてきています。僕自身も村内ノマドと称して、たまに村内企業の一室(廃校を利用したオフィスなので先日は旧図書室)を借りて仕事をすることもありますが、固定したオフィスを持たずに働くのであれば、本来住む場所も大都市圏内である必要もないのではと拡大解釈してしまいます。住環境の志向性は人それぞれなので一概には言えませんが、少なくともノマドワークが可能な職種であれば日本中に数多くある空き家に移り住んでみてはいかがでしょうか。
生活圏を変えることは確かにエネルギーのいることで、田舎ではなおさら既存のコミュニティとの付き合い方が求められますが、その分だけ新たな発見や出会いが残された暮らしを豊かにしてくれるというのが、山村生活もうすぐ1年目の実感です。
先日も鳥取で素敵な出会いがありました。駅から少し離れたそのお店は、東京からIターンの娘さんが店主でお母さんがお手伝いをする小さな食堂です。素朴な店内で昼食のメニューは4つだけ。一家で出かけていたので皆でのばらばらの料理を注文しましたが、そのどれもがおいしい。一つひとつの料理が丁寧に作られた味がする。思わずお店の方に話しかけてみれば、偶然にも共通の友人が村内にいることが判明。こうしたやり取りも含め、料理の味は素材がいいのかもしれませんが、何より作り手の実直な姿勢を感じるものでした。

生活圏が変わるということは、白地図にどんどん付箋を貼付けていって自分だけの地図を作ることのようです。
この食堂のようなアタリもあればハズレもある。古い付箋(以前の生活圏の箇所)は剥がれやすくなるけれど、それ以上に新しい付箋を足していく楽しさがあります。

素敵な食堂でご飯を待つ

 

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http://project-logue.jp/?feed=rss2&p=577 0
correspondence: 鈴木宏平 09 http://project-logue.jp/?p=554 http://project-logue.jp/?p=554#comments Tue, 10 Jul 2012 12:29:40 +0000 http://project-logue.jp/?p=554 From: 小川直人

To: 鈴木宏平

 

先日、山形にある東北芸術工科大学のギャラリーで石川直樹さんの写真展「異人 the strangers」を見てきました。写真に疎い僕でも知っている有名な人ですが、作家に惹かれたというよりも、各地での来訪神を迎える祭を撮ったというところにつられて。メンバーが集まると数回に1回は奇祭の話で盛り上がるというくらいlogueではポピュラーな話題なのです。

奇妙なかぶりものをまとった人々の写真を見ながら、こういうよくわからない祭が続いている土地があるというのは不思議なものだなとあらためて考えていました。根拠がよくわからないが続いていることそのものは身の回りにもさまざまあり、大抵は惰性や悪習という感じがしますが(責任の所在がわからない社会という意味で)、顔を想像することもできない世代から受け継がれ、もはや雨乞いや豊作祈願ということもないだろうに、しかし、そこに写っている人たちの高揚感が伝わってくると、この力はなんだろうかと思います。自分が知り得ない時間の尺度に体を動かされることの何かなのでしょうか。

西粟倉村での暮らしには、そんなお祭りや風習はありますか(別に奇祭でなくともかまいません)。あるいは、鈴木家にとってはじめてになる慣習はあるでしょうか。

 


From: 鈴木宏平

To: 小川直人

 

一週間程滞在していた東京から戻ってからは連日の雨模様で、身も心もじっとりと湿っぽくなってしまったようです。まさに日本の梅雨空。外を見れば我が家の畑までもが雨水で冠水し、予想以上の水はけの悪さに焦りも感じつつ、家の中では乾き切らない洗濯物で部屋中の鴨居を占拠する有様で(子どもが3人もいるとそれだけ洗濯物の量は甚大)、室内は暗く気持ちもぐったりと重くなってしまいました。
それでも救いなのは『暑くない』ことでしょうか。毎朝日課となっている息子を保育園に送る道にある温度計は20℃前後、雨が降っていれば薄い長袖を羽織ると丁度いい気温で、寝起きは少し肌寒いくらい。日中も大して気温が上がることはありません。おかげで蒸し風呂のような状況は避けられていましたが、やはり心の内側にまでカビが生えて来るような倦怠感が溜まっていく日々でした。

しかし、この暗鬱な日々から脱した昨日今日の陽気! 朝の日差しから世界が違って見えます。東を向いた窓から差す光は障子越しにも朝の到来を伝え、食卓から臨む景色も朝露が輝きその日一日を祝福しているかのよう。そんな日は朝から外の物干竿に洗濯物を並べ、ついでに布団まで干してしまいます。
畑の野菜たちも十分過ぎるほど蓄えられた土中の水を思い切り吸い上げて、精一杯伸びようと葉を太陽に向かって拡げているようで、こちらも負けじと朝から元気に動き回っています。
これだけ気候に左右されるとは我ながら単純ですね。
それでも、青い空の背景に、緑の山の稜線とその上に続く白い雲の単純な構図は、まさに絵に描いたような夏の空。昼間はもう蝉が鳴き始め、夕暮れ時のヒグラシの鳴き声に聞き入っています。
夏休みを間近に控える息子に敵わないまでも、親父の僕までもワクワクする季節です。

友人宅で昼寝する次男。夏は汗だくとなる

さて、東北仙台で生まれ育った人間が、この中国地方の山村に来てめずらしく(一般的なめずらしさというよりは、僕自身がこれまで経験していなかったという意味で)感じたモノ・コトは今のところ下記。

(1)引っ越し挨拶の手拭い
(2)なにごともまずは区長から
(3)地区毎のお祭り
(4)各戸にある屋号

(1)——引っ越しといえば『引っ越し蕎麦』がありますが、それはあくまで引っ越してきた側の食事の話で、やはり近隣住民に挨拶に伺う際には何かしらを手土産に持参します。これまでの仙台から東京や東京内での引っ越しのときは菓子折と相場が決まっていましたが、こちら西粟倉では『手拭い』を持って挨拶まわりをするとのこと。我が家はその習わしに気付かずに準備していませんでしたが、越して随分月日が経ってからそんな慣習があることを教わりました。
隣のおじいちゃんがまだ小さかった頃、貧しい時代に最も汎用性が優れ、農作業や日常生活に使われる『手拭い』が実用を兼ねたギフトとして贈られたのが、今も続いている慣習とのことです。

(2)——仙台にいた頃はまだ子どもでしたし、東京ではその存在も感じられなかった自治会(賃貸物件だったため。分譲マンションでは自治会がありますね)。山村生活ではなかなかに強い結束力が求められます。区長を始め役員は任期2年として直接選挙で選ばれ、その代表が村行政と時には連携し、時には物申す役割を担います。そのためこの地区に関わるようなことはまず区長さんに相談するところから始めなければなりません。空き家を探していたとき、そのルールを知らずご近所さんに声を掛けていましたが、第三者から「区長さんにまず話をしないさい」とご指摘をいただきました。
地区内での連絡を統一・簡素化するために築かれたトップダウンシステムですが、地区内の行事に対する連絡は村内全戸に設置された村内放送(光回線を使ったデジタル端末)を駆使するところは、田舎(人口が少ない)だからこそ可能にする意外な技術革新でもあります。

(3)——先日、地区にある岩滝神社で夏祭があり一家で参加してきました。前日に神社のまわりを地区のみなさんで掃除するところから始まり、子どもたちと一緒に草取りやほうきがけをします。当日は祭といっても昼前に神社に集合し神主さんのお祓いを受け、その後はお神酒を嗜む程度ののものでした。こうしたお祭りが年に3回程あるとのことです。小川さんが写真展で見たようなめずらしい面や踊りを繰り広げるようなものではなく、一般的にもめずらしいお祭りというものではないのでしょう。それでも仙台の実家で暮らしていた頃からあまり神社との付き合いはなかったので、そうしたお祭りに参加するのもなかなかの好奇心をくすぐられるものでした。
昔、車も娯楽もなかった頃はこのお祭りが本当に楽しみで、境内への道すがら出店が立つのが嬉しかったと隣のおじいちゃんは遠い目をして語っていました。同じ村内でも地区毎に祭の日程がずれているので、村内をハシゴして酒を飲み歩く輩もいたそうな。いつの世も祭好きはいたのですね。

(4)——屋号といえばフリーランスであれば開業届に書くもので、僕の場合はnottuoのように商売をする上での呼び名といった程度の認識でした。ところがこの地域では昔から続く屋号が今もまだ現役で使われているようです。
歴史を振り返れば江戸時代の士農工商から武士以外が苗字を認められなかったことまで遡れますが、少なくとも私の実家では屋号は聞いたことがありませんし、ましてや東京の暮らしでも「我が家の屋号は◯◯だよ」という人間に出会ったことはありませんでした。
この村では今も現役で、農作業の道具等に名前代わりの屋号が書かれています。小松、小林、春名、清水、国里……親族が近くに住んでいるため、村内には同じ苗字の家庭が多くあります(全国2位の鈴木は村で我が家だけのようです)。そうなると一般的に苗字を使うよりも屋号を使って区別するのは理にかなっているのですね。

まだ越してきてから1年に未たない状況ですが、未体験の事柄を経験していくというのはなかなかおもしろいものです。少なくても季節が一巡し、1年通した行事や気候を知ってから、今度はより深く楽しむ方法も見えて来るような気がします。
初めての山村で暮らす夏。楽しみが沢山です。

「何年かぶりにこどもが参加した!」祭

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correspondence: 鈴木宏平 08 http://project-logue.jp/?p=517 http://project-logue.jp/?p=517#comments Fri, 08 Jun 2012 07:47:44 +0000 http://project-logue.jp/?p=517 From:小川直人

To:鈴木宏平

 

新しい生活の疲れが出てくるころなのか、5月の連休が明けてから子どもがじわじわと風邪のような不思議な不調に見舞われ、そこから親二人にもうつり、家族全員が順番に病院に通う日々が続いていました。オフィスワークに戻ったことでより規則正しい生活になったような気がするとはいえ、昨年一年を通じた運動不足は解消しないどころか拍車がかかっているからなのかもしれません。いずれにせよ、ここで少し生活や仕事の見通しについて軌道修正をする時間をとりたいと思っているところです。

いやはや自分の見通しが甘かったと修正したいと思うことはたくさんあるのですが、そのなかでも大きなもののひとつは、会議というものの体への負担です。鈴木さんにはあまりないことかもしれない。人と打ち合わせることは昨年もしばしばあったし、家族と相談することは日々でしたが、会議という様式というか場からはしばらく離れていたのは事実で、それが連日続く生活に戻ってみると、体の中に何か重いものが溜まるのが実感されます。今まで日々多くの会議に時間を費やしてきたので、今更そんな感覚に気がつくのも変な話ですが、これはなんでしょう?少し考えてみたい。
さて、そんなもやもやとした日々を送っているところですが、今回はもやもやとしたもののひとつについて質問します。鈴木さんは今、原発や土地や食べ物の放射能の問題についてどんなことを考えていますか。これはとても問い方が難しいような気がしていて、気にはなりつつも質問するのはどうかなと思っていました。あるかないかで言ったらないほうが良いに決まっているし、3月の往復書簡にもあったとおり、鈴木さんの今を選択することにおいて少なからず影響があったことである以上、そう簡単にも答えられないだろうなとも考えています。
僕自身は、食べ物についてはある程度気をつけているという程度です。今までも野菜などは地元のものが中心だったし、お金をかければどこまでも選択できること自体の問題について少し思うところもあるので、あまり特別なことはしたくないという心情もあります。むしろ、このものすごく根の深い、さまざまなことが絡み合ったこの問題について、どう日常的な態度をとっていくか日々細々と考えている、というのが素直なところです。


From: 鈴木宏平

To: 小川直人

 

こちら山村の生活も随分と慌ただしくなってきました。といっても大袈裟なプロジェクトの進行や仕事の予定といったものではなく、もっぱら汗を流す作業でなんだか忙しくなっています。

日暮れからの蛙の大合唱は相変わらずの盛況ぶりですが、昼間の日差しは早くも夏の到来を感じさせる程になり、ソフトボールを続けている長男は早速日焼けした様子。お風呂場でいつも焼けた肌を僕の腕と並べては得意げな顔をしています。あまりにも冬の寒さが印象的だったので、春の訪れから最近の陽気に至るまでの劇的な変化は狐につままれたような気がしますが、それでもこの季節は本当に気持ちがいい。照りつける日差しで火照ったからだに吹くそよ風(『そよそよと吹く風』とはまさに言い得て妙。素敵な言葉)がこんなにも心地よいものとは。一歩日陰に入れば空気もひんやりと感じるのは、日差しは強くともあまり気温が高くない山の気候のせいでしょうか。

畑仕事はこどもも喜んで手伝う

暖かな日々に喜ぶのは人間だけでなく、庭に生えた草木もまた日差しを目一杯受け止めようと枝葉を上へ上へと生い茂らせるようになれば、今度はその手入れがなかなかの重労働となっています。庭木でいえば柚子、花梨、紅葉、柿、紅梅、馬酔木、山椒、桃、桜、月桂樹、椿、その他まだ名前も知らない木々が随分手入れをされない状態で伸びていたために、最近の週末はもっぱらその剪定と、それ以上に驚異的なスピードで伸びる雑草と笹の草刈りにいそしんでします。草刈り機は仙台の実家にもありましたが、この村に来て初めてチェンソーの使い方も教わりました。慣れないながらも庭の手入れに悪戦苦闘していると必ず近所の諸先輩方がやってきて枝打ちの箇所や剪定の仕方を教えてくれます。ちょっとずつ明るくすっきりしていく我が家の庭を見ては、みなさんもなんだか嬉しそう。聞けばまだ家主さんが住んでいた頃にみなさん手入れを手伝っていたそうで、人が住まなくなってからちょっとずつ荒れていく様子に気を揉んでいたとのこと。やはり家は人が住まないと維持できないものなのですね。

自家菜園の方も漸く少しの苗を植え、種を蒔くことから始まりました。この周辺は鹿と猪の獣害で露地栽培のときはまず柵を設けなければならないので、そのためにおあつらえ向きのビニールハウスの骨組みの中に植えたエンドウ豆と小ネギはもう収穫しはじめ、育苗ポットに蒔いた二十日大根、チンゲン菜、キュウリ、セロリ、ナス、トマト等の種がそろそろ芽を出してきました。その隣にはスパイラルハーブガーデンを見よう見まねで作り、ミント、スイートバジル、コリアンダー、セージ、カモミール、紫蘇が植えられています(ハーブ類は鹿も食べない)。
隣のおじいちゃんの畑は我が家の数倍の広さがあり、冬の間は採れた作物をいただいてばかりだったので、今度は作るところから一緒にお手伝いすることも始めました。先日も我が家と村の友人の子どもたちと一緒にトウモロコシとサツマイモの苗を植え、カボチャの棚を作るために、山に入って竹を切り出してくるようなことも経験しました。
東京で過ごした約10年間、身に纏う服装でしか季節の変化を実感できなかった己の鈍感さが際立ち、ただ暮らすというだけで季節によってこんなにもやることが多いのだと実感する日々が続いています。
フリーの身ではもともとあまり縁がない会議ですが、こちらの生活では考える以上に動かなければ(汗をかかなければ)進まないことが多いので、余計にその時間を持つことはなさそうですね。

となりおじいちゃんの畑 労働力のかわりに作物のお裾分け

さて、今回の往復書簡は「原発や土地や食べ物の放射能の問題について」というご質問に対して、どのように答えたら良いのだろうかと正直頭を悩ませていました。これは小川さんへの回答という意味だけでなく、自分の子どもに対してどのように僕の考えを伝えるのだろうという自問が多分に含まれているためです。
簡潔に言えば、僕とパートナーの判断で我が家は『福島第一原発事故の放射能汚染による健康被害への懸念から、東京より西日本へ自主避難した』状況で、『脱原発』を原発事故以降の信条とし、食べ物からの内部被爆リスクの回避はこれまで相当に気を使っています。

食べ物に関しては近所のおじいちゃんおばあちゃん方にいただくことも多く、まさに旬の野菜を一時に集中して食卓に並ぶようになりました。つい先日までは毎日ほうれん草を食べていて、腐らせる前に食べるためにはいろいろな料理にして飽きないような工夫が必要になります。昔の人は冷蔵庫もなかったから、その分保存食や郷土料理等の開発がされたのでしょうか。
もちろんそれだけでは足りない分は、村の有機農家さんや道の駅の朝一で買うこともあります。それ以外にも宅配で岡山県内や近県の有機農家さんから野菜、その他の調味料や乾物等をネットで購入することも少なくありません。
もともと原発事故以前より食べ物にはかなり気をつけていました。パートナーがアトピーだったことから、子どもが生まれて以降、農薬や化学調味料への懸念は強く、東京生活の頃から食糧は宅配で購入していました。宅配については、遠くの作物を長距離間化石燃料を使って運ぶことへの問題意識や、農薬を一概に反対することへの議論もありますが、農薬も化学調味料も使っていないに越したことはないという判断から利用していました。
また食べ物の放射能問題に関しては現在も注意を払い、子どもたちを極力内部被爆させないよう務めています。岡山へ越してきた最大の理由がその食べ物への懸念でした。東京にいた頃は極力西日本の食べ物を選ぶようにしていましたし、それはここ岡山へ越してきてからも変わりません。こう書くとまっさきに『非国民』『風評被害』といった非難を覚悟しなければなりませんが、改正された食品の放射性物質の基準値をクリアしたものが市場に流れ、店頭に並んでいるとしても、それは放射性物質が0という証明ではありません。ましてやその検査も全ての商品を検査している状況ではないため、子どもたちには食べさせたくないというのが本音です。あるいは東京の店頭でも基準値への合否ではなく、ベラルーシのように検出結果を数値として表示される棚があったのなら東京での暮らしを続けていたのか。日々の食べ物のチェック(家庭用や外食、学校給食)に対するストレスを考えれば、やはりこちらに越してきたのだろうと思います。

原発に関しては震災以前なんの知識もなく、漠然と「しょうがないのだろうな」という程度の認識でした。事故後、東京の水道水から基準値を超えたヨウ素が検出された頃から、本当に身近な問題として放射能汚染・原発に対しての情報収集を始めたように思います。その頃次男が1歳半、チェルノブイリ原発事故後の乳幼児への低線量被爆似よる健康被害の情報を知れば知る程不安は募り、特に母乳をあげているパートナーは寝る間も惜しんで情報を集めようとしていました。そうして知ることになった原発の弊害、燃料となるウラン採掘の健康被害と埋蔵量の問題、大量の冷却水放出による海の温度上昇、そして行き場のない使用済核燃料。埋められた廃棄物が無害になるまでに10万年かかるという事実、そんな死のゴミを大人たちは「発展のため」を理由に今も生み出し続け、その処分を後世の人に押し付けている事実を、子どもたちに何と伝えればいいのでしょう。
日頃ゴミをポイ捨てするなと看板まで立てて叱る大人達が、命を脅かす猛毒のゴミを平然と未来の子どもたちに押し付け、あまつさえ外に漏れ出したそのゴミを知らんぷり(福島第一原発から放出された放射性物質はその土地のものという詭弁)。
国策として「核燃料サイクル」政策を土台に進められ、政治と経済が複雑に絡み合ったこの問題。核燃料サイクルは夢のエネルギーだったのでしょう。いつの日か実現する技術なのかもしれませんが、その技術革新への道のりはあまりにリスクが高すぎる。『安全』と唱え続けたその安全性が、一度の事故でこれほどまでの広い土地を汚し、人の住めない環境としてしまう。
そんな原発とは共存できないと考えています。そのために『脱原発』。

ではこれからどうするか、これが日々頭を悩ませているところです。
エネルギー政策の転換や、自然エネルギー利用のための技術革新はおおいに推進されていくことを望んでいますが、そうした大きな視点での社会インフラの問題以前に、もっと身近な自分の生活というレベルでの変革をどのようにおこなっていくか。「生きること」を基点にしたからこその脱原発でありながら、日常生活をこれまで通りの消費生活の繰り返しにしてしまうのか。
この村に越してきてからも、「放射能からの自主避難の人間が反原発を言っておいて普通の生活を送っている」ことへの批判を度々受けていますが、その批判への反論ではなく自分たちが望む暮らしとはいかようなのかと自問しています。
『脱原発=前近代の暮らしへの回帰』とはまったく思っておりませんが、では作られる電気(エネルギー)の質を原発から自然エネルギーへ代替で済む話でもないような気がしています。

そんな中で漠然と考えているのが、消費者としての生活に生産者としての要素を足していくこと。これまで仕事で稼いだお金で買うのみだった食べ物も水もエネルギーも生活雑貨も、少しずつでも自分の手で作る(汗をかいて手に入れる)ことで、あらゆる要素が複雑に絡み過ぎている社会の中でも、片足だけでもその社会から離せるという余裕をもつことができるのではと想像しています。火と土と水で生きていることを、ちゃんと実感するということでしょうか。
水道が止まっても湧き水を汲めること、スーパーがなくとも食べる野菜と米を作れること、野山から食糧を調達できること。今の自分にまったく足りていない生きる力を身につけることが第一歩のように感じています。
現代社会を一概に否定し、完全なる自給自足の生活を望んでいるわけではなく、社会の中でシステムに依存する部分とそうでなく自活する部分の両方を持つ、つまり、生きる上での個人の判断をすべて社会という枠組みに依らずに、利用するような立ち位置が保てないか。そんなことを考えています。

草木が生い茂ってきたこの季節、パートナーの染色熱も沸きせっせと染め物を始めています。僕たちはこうしてひとつずつ理想の暮らしを形にしていこうと思います。

玉葱で染めたストール 染料の素材はまわりに生えている

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correspondence: 鈴木宏平 07 http://project-logue.jp/?p=502 http://project-logue.jp/?p=502#comments Tue, 08 May 2012 01:26:11 +0000 http://project-logue.jp/?p=502 To: 鈴木宏平

From: 小川直人

 

4月からメディアテークに復帰しています。それにあわせて子どもは保育所に行くようになりました。最初の2週間ほどは練習期間のため、お昼までの保育、そのあとは3時までとなっていたので、その間は送り迎えともに僕がやっていました(平日の妻の出勤は僕よりも早いのと、帰り時間の融通も僕のほうがきくので)。育児休暇が終わったはずなのに、どうしてお父さんしか出てこないのだろうか?もしや奥さんに逃げられたのではないか?などと保育所の人たちには思われていたかもしれませんが、相変わらず子どもは毎朝泣きもせず別れ、淡々と保育所生活に慣れているようです。でも、先日一日だけ「ほいくしょ、いかない」と言った日がありました。玄関先でしばらく話しこんだ後に無事その日も保育所には行ったのですが、その日は職場でも一日なんとなく心配ではありました。子どもは移り気だからそんなことはよくあることかもしれませんが、比較的淡々とした子どもだからこそ環境の変化にじんわりと疲れてきたのかもしれないとも思います。

たしかお子さんたちは鈴木さんに3ヶ月先んじて引っ越していたと記憶していますが、10ヶ月近くたってみて様子はどうですか? たしか2回目の手紙の写真には「こどもの適応力は強い」とコメントがついていましたから、のびのびと村の生活を楽しんでいることと思いますが、子どもの社会生活というか、いままでと子どもの数も違うでしょうし、遊びも違うのではないかと思います。親から見てどんな変化がありますか。あるいは、心配事などあるのでしょうか。

と書いてみて、そもそも子どもは日々変化をするものだろうし、その子の今は他と比較しようのない「その子の今」でしかないような気もしてきました。でも、兄弟がいるとそれぞれに適応や反応の違いが見えそうですね。

 


To: 小川直人

From: 鈴木宏平

 

5月になり、ここ西粟倉村も田植えの最盛期を迎えています。田んぼに水が入ってからは、カエルたちの大合唱が昼夜問わず谷中に響いています。その音量たるや、風情を楽しむといった生易しいものではなく、田んぼを舞台にロックフェスが開催されているような賑やかさ。彼らにとっても春は待ち遠しかったのでしょう。

仙台に比べるとだいぶ西のほうですが、田植えの時期はほぼ同じでこのゴールデンウィークが最盛期のようです。西日本といっても山間のこの村は気候が涼しいからなのでしょう。この時期田んぼに面したアスファルトの道路という道路に、トラクターから泥の落とし物が列を作ります。東京での生活では決して見られなかった光景ですが、その道の汚れ具合はとても懐かしくもあり、道の状態としてはとても自然なのではないかと思ってしまいます。(きれいな道路というのは、それだけ人の生活圏が土と乖離してしまった証明なのでは?)

子どもの頃、5月のゴールデンウィークといえばどこかに遊びに行くというよりも、家族総出で田植え作業に駆り出され泥にまみれながら田んぼで農作業を手伝って(遊んで)いました。まだ小学校低学年まではそれでも楽しんでいたようですが、高学年から中学生にもなるとサッカークラブや部活の練習など、何かと理由をつけて手伝いを回避できないかと考えていました。それこそ農作業なんて「カッコワルイ」もので、その姿を同級生に見られるのが恥ずかしいとまで思っていた気がします。

この歳になって思えば、仕事との向き合い方が何とも無責任な立場だったために恥ずかしさや面倒くささがあったのでしょう。毎年のことながら、手伝う作業内容は言われたことをただこなすのみで(苗箱の積み降ろし等の単純作業)、自分の作業が米づくり全体からみてどの位置にあるのかも分かっていませんでした。まさに手伝いを“やらされていた”状態では創意工夫もないわけで、そんな単純作業は楽しいはずもない。

大人になり、自分の責任の上で仕事をするようになって気付くものですね。

 

4月になってから長男はスポーツ少年団に入りました。親の僕は小中高とサッカーを続けていたので、できれば長男にもサッカーをやらせたかったのですが、村にはソフトボールとバレーボールしかなかったので、結局ソフトボールの練習を週3日始めています(パートナーは小学6年生の頃ソフトボールで全国大会優勝の経験があり、我が家の長きに渡る『サッカーと野球のどちらをやらせるか』論争に遂に終止符が打たれました)。

次男も保育園での生活に慣れたようで、「どうぞ」「かして」「ねんね」「ばいばい」「た!(ごちそうさまでした)」等の言葉を覚えました。集団生活をしていると知らぬ間に話す言葉が増えたり、おもちゃを使った一人遊びを覚えて帰ってきます。それに先日はロタウィルスを持ち帰ってきて、僕と長男は比較的症状は軽かったものの一家でトイレに駆け込む日々が一週間程続きました。

7歳にもなると時折大人びた表情を見せる

1歳半はまだまだあかちゃん

パートナーと子ども達が移り住んで8ヶ月とちょっとが経ちました(昨年8月20日に引っ越し)。

親の僕たちからすればあっという間の日々でしたが、子どもとってはどうだったのだろう。長男は40人3クラスの小学校から同級生11人、全校生徒60人程の学校へと転校したわけで、本人にとっても大きな生活環境の変化だったはずです。長男が2歳半のときに東京の小平市から大田区へと引っ越したときは、恐らくその変化へのストレスせいで毎夜激しく夜泣きをしていました。今回の引っ越しではさすがにもう7歳なのでそうした表立った影響はなかったようですが、学校帰りはよく「疲れた……」といってぐったりしていました。転校してから早々に授業参観があったので僕も参観しましたが、どうにも集中力が足りないような、ぼけーっと口を開けている状態だったのは、不慣れな環境・人間関係に戸惑っていたのでしょうか。

単純に比較していいのか分かりませんが、2年生になって初めての授業参観が先週行われたのでまた参観すると、授業中でも何だか楽しそうな目をしているんですね。席を立って移動する場面でも、友達とふざけ合いながら動いてるさまを見て、父としてはほっとしました(引越してきてからの参観率100%更新中です。その分まわりの父兄からは「あのお父さんは仕事してないのかしら」と疑惑の眼差しを受けているような……)。でも、自宅の近所に同世代の男の子がいないため、休日や学校帰りはかえってつまらなそうにぶつくさ文句を言う始末。やはり友達と遊んでいるのが一番楽しいのでしょう。

越してきてからの分かりやすい変化といえば、虫を触れるようになったこと。それまでは図鑑を読んで興味を持つ割には、いざ触るとなると腰が引けて触れもしなかった情けない子どもでした(そのことを「このもやし野郎!」とバカにすれば、僕に向かって「うるさいこの豆もやし!」と言い返す気概だけはあるようですが)。それがある日の帰り道、自分で捕まえてきたアカハライモリを水槽で飼うようになり、餌のミミズを捕まえてくるようになり随分と逞しくなってきたように思います。親子で好きな釣りでも、餌のアオイソメ(慣れなければかなり気持ち悪い部類でしょう)も自分で付けられ、一緒に連れて行った中学1年生の子どもに先輩面していたのがおかしい。

そうして強くなってきたと思えば、時にはとても甘えん坊の一面も見せてきます。やはり子どもは日々行きつ戻りつしながら、少しずつ大人になっていくようです。

 

飼育中のアカハライモリの『ポル』

ところで、4月の末から、我が家に東京から新しい家族が越してきました。子どもは現在3歳の暴れ盛り。急に弟が増え2人の兄になった上の子は、まだ戸惑いながらも長男の処世術を模索しているようです。下の子にとっては年が近い兄の出現で、これまで以上に子どもたち同士のケンカの声で賑やかな我が家です。これからはひとつ屋根の下、6人の大家族の生活で子ども達の成長と変化が楽しみです。

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coresspondence: 鈴木宏平 06 http://project-logue.jp/?p=482 http://project-logue.jp/?p=482#comments Tue, 03 Apr 2012 06:13:37 +0000 http://project-logue.jp/?p=482 To: 鈴木宏平

From: 小川直人

 

3月も最後の週となったところでこれを書いています。三寒四温、春一番、そして花粉症(それほどひどくありませんが例年かかります)など、時に困ったなと思いつつ待ちわびていた季節の変わり目を感じさせる変化と、4月にむけての事務処理をこなしたり、保育所で使う品々に名前を書いたりという慌ただしさがまじりあう毎日です。 正月が「新年の抱負」なら、4月は「新年度の計画」。学校や仕事など、どこか具体的な物事が動きだす予感がします。 そのうち大学が秋入学になって、春が出会いや別れの季節の代名詞として語られるのも懐かしいことになるかもしれませんが。鈴木さんは新年度の計画を立てていますか。自営業だとあまりそういう区切りはないのかな?

それと、前回のやりとりで写真を受け取ったときにふと思ったことなのですが、仙台のご実家とは最近どんなことをお話ししていますか。本来の予定では、という言い方は人生においてはあまり意味をなさないと僕は思っているけれど、本来の予定からすれば、鈴木さん一家が西粟倉村に引っ越すというのは、鈴木さんにとって大きな変更であったのと同じくらい、ご実家にとっても大きな変更であったのではないかと。前回の写真でお母様の笑顔をみてなんだか気になっていました。

 


To: 小川直人

From: 鈴木宏平

 

よく晴れた日の朝は、淹れたてのコーヒーを片手に庭を散策しています。冬の間身を覆っていたダウンジャケットを着ることもなく、玄関から裏の畑に向かう途中、縁側の前に植えられた梅はもう蕾が開き鮮やかな濃いピンクの花を咲かせています。朝から賑やかな子どもたちをそれぞれ車で送った後、その代わりを務めるように今度は鶯がその鳴き声を谷中に響かせています。耡(うな)った畑の土からミミズと一緒に現れた濃厚な土の香りを嗅ぐと、冬の間凍てつき固まっていた土も空気も光も、あらゆるものがまさに融けて広がっている様子を実感します。
この山間の小さな村にも春が来ました。

4月となり新年度が始まったことで、長男が小学2年生、次男が保育園入園(これまでは正式な入園ではなく、一時保育を毎日という便法でした)となりました。フリーランスのデザイナーとしては年度の意識は希薄ですが、子どもたちの行事が区切りを伝えてくれる生活がここ数年続いています。村で普段見慣れない黒いスーツを来た人たちを見かけてから、それが新入社員の方々と気付くまでにかかった時間が、僕の意識の低さを物語っています(ちなみに仙台は大きな街なので新入社員や新入生など、新しい生活を始めた人々でしばらくは賑やかな状態でしょう。『村』に住んだことであれは人の流れに動きがある表れなんだと気付きました)。

子どもの学年が上がると、教育という制度によって受ける授業が当然変わります。例えば漢字ならば1年生までは80字、2年生は160字、3年生は……その分だけ知識を身につけ成長していくさまが見て取れますが、自分の子どもに限っていえば、彼が描く絵もまた、教育とは異なる物差しでの成長が見えておもしろいものです。

彼の『将来の夢』は封筒屋さんになることらしく、その職業は自分が描いた絵を型に合わせてトリミングし、それで作られた封筒を販売するというもの。目標1,000枚が在庫できた段階で開店する予定で、現在は43枚制作済み。
この夢は1年半程前(まだ幼稚園児の頃)から具体的になっていて、その制作ペースの遅さはさておき(作っては祖父母に手紙を出したり友達にあげてしまうため)、実際に描く絵が1年半でも変わってきています。使う画材は水彩やコピック、クレヨン、クーピーとまちまちだが、始めた頃のただがむしゃらに頭の中のイメージを紙に載せることから、モチーフを決めて模写をするようになり、写そうとすることで、モチーフと自分の絵の間で悩む。うまく描けないと苦悩する。
親として「うまく描こうとするな」と伝えてきたはずですが、彼の中ではもう描く先の評価を気にしているのかと訝しんでしまいます。作ること自体を楽しんでいたはずが、いつの間にか作った先の他者(現段階では褒められることでしょうが)が気になり、絵を描くことが目的から手段に変わってしまっている状況。そんな葛藤が彼の絵から感じられてしまうのです。
大人になる過程で、表現という行為(広義では働くということ)における自己の欲求と社会的評価の葛藤は避けては通れないものですが、一人の親としてはもう少し自分の世界を楽しむ年頃でもいいのにと思ってしまいます。それはきっと『子どもは無邪気なもの』という大人の勝手な勘違い(自分が子どもでいられないための過度な期待。子どもは思った以上に打算的でずる賢い)なのだろうと思いつつも、それでもやはり親である自分のこれまでを超えた生き方をしてほしいと願ってしまいます。

子ども絵を批評するなんて随分親バカな行為と承知しながらも書きましたが、こうした子どもの成長の尺度は各家庭それぞれにあって、親はみな思うところはあるのではないでしょうか(小川さんのお子さんならば、映画はまだ早いだろうから音楽や言葉でしょうか)。

さて、仙台の実家とはスカイプの存在を知らせてからは週に一回程度会話をするようになりました。
先日『いぐね』のほとんどを切ったとの知らせを受けました。『いぐね』とは仙台の古い農家にはつきものの屋敷を囲む防風雪林です。津波の被害で土壌の塩分濃度が極度に上がり、多くの木々が立ち枯れしてしまったため、倒木の二次被害を防ぐための行政施策です。いぐねの中でも最も樹高の高い杉の根元には代々受け継がれた外神様があり、僕をふくめ子どもたちが小さな頃から正月の朝晩は餅とご飯を供えに歩いたものです。夜は鬱蒼と茂った林の中、寒さと暗い恐ろしさから足早にお供え物をして、後を振り返らぬように逃げ帰ったのを思い出します。昔から家を守ってきた林がなくなった様子を写真で見せられ、随分と悲しそうに話していたのを思い出します。

左が震災前、右が伐採後

外神様 まわりの神木はもうない

さて、前回の母の写真から思わぬ展開ですが、小川さんのご質問に母本人から手紙で回答してもらったので、今回の往復書簡に飛び入り参加で母の書簡を。

 

***

母:美枝子からの便り

 

昨年の夏、息子から電話で、「放射能が心配だから、岡山に引っ越すから」と言われた時、「どうして岡山なの、青森も、北海道もあるでしょう」と言いました。岡山は遥かむこう、それなら少しでも近くて、仙台よりは安全な所と思い、咄嗟にそう言いました。息子は「どうしても近くに住まわせたいの。もう決めたから」と言いましたが、その時自分でも驚く位あっさりと、「いいよ、岡山でも、地球の裏側でも、お母さんどこにでも会いに行くから。お母さんは、あなたたち家族が元気でいれば、それでいいから」と言いました。

本当なら、去年の三月末に家族四人で仙台に引っ越して来て、賑やかに暮らす予定でした。それが、あの3月11日の大震災により、今すぐ住める環境ではないことが分かり、引っ越して来なくなった段階で、もう諦めていたのかもしれません。

あれから1年が過ぎ、時々、自分の老後はこんなに静か過ぎて、寂しい暮らしになろうとは想像もしなかったなあと思う時があります。
でも、うれしいことに、岡山にいる息子夫婦も、私達が寂しがっていることをとうに察して、スカイプで孫と話しをする時間をたびたびつくってくれたり、岡山に呼んでくれたりと気を使ってくれています。もし、無理して仙台に来てもらい、10年後、20年後の息子家族の健康に憂いていたら、今よりずっと、辛い日々を送っていたかもしれません。

いまだに余震が東日本の広範囲にわたって人々を脅かしているこの頃、やはり子どものことを思っての息子夫婦のとった行動は正しかったと思っています。どこに住んでも、お互い元気でいる事が一番です。一日一日を大切に、感謝して生きて行こうと思っています。そのうち、また岡山に遊びに来てと電話がかかってくることでしょう。

***

僕は祖父母と両親と3人の兄たちとの8人家族で育ったので、自分に子どもが生まれてからは核家族ではなく祖父母と一緒に暮らす生活を望んでしました。なるべく賑やかな家庭で、ご飯を大家族で食べるのを理想としていたからです。しばらくは祖父母に西粟倉に来てもらうことになりそうです。

この往復書簡も6回目、1年の半分まで来たのですね。残り6回、これからも村での暮らしをお伝えできるのを楽しみしております。

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coresspondence: 鈴木宏平 05 http://project-logue.jp/?p=423 http://project-logue.jp/?p=423#comments Wed, 07 Mar 2012 01:41:32 +0000 http://project-logue.jp/?p=423 To: 鈴木宏平
From: 小川直人

学校を卒業して以来、毎年2月というのは何となく短い気がしてます。実際短いのだけれど、数日少ないというだけではなく、新しい年がはじまる1月の高揚感と、年度末の慌ただしさがある3月の高揚感に挟まれているためなのか、じりじりとしている間に過ぎてしまう。

一方で今回の2月は子どもの語彙が語彙日々増え、育児休暇をとってからの丸一年の長さをあらためて実感してもいます。4月になって職場に復帰するまでの間に、この一年と少しの期間を振り返って作文でも書こうかと考えているところです。誰のためというより、将来の自分のために。震災のことは大きな出来事ではあるけれども、僕にとってこの1年は子育てに専念したことが何よりも大きなことなのです。おそらくそんなことをいちいち人に説明することはないし、話題として早々共有できるとも思えないので、一人で紙に向かい合ってみようかと(実際にはパソコンに向かい合いますが)。

3月11日前後には、仙台はもちろん各地でさまざまな追悼イベントがあります。育児休業中とはいえ僕も文化系の仕事のはしくれではあるので、イベントをやる/やらないの議論や、大小おこなわれるものの流れのなかにはいて、11日当日は現場の手伝いをしているはずです。それが3月11日の正しい過ごし方かどうかはわかりません。ただ、ごく個人的な思いとしては、それぞれ勝手にやる(やらない)のが良いと思っています。何かをやるかやらないか、どのようにやるかよりも、ただ他者を赦すことが追悼という意のように思われるので。

鈴木さんはどんな気持ち、あるいは予定で3月11日を迎えようとしていますか。「被災地」から距離があるということは、それだけ人や土地の空気も違うと思います。特にどんな気持ちもない、というのもありえると思います。毎日は本来それぞれその日しかないものですから、その日が来てみれば、いつも通りのかけがえのない一日であるだけかもしれません。


To: 小川直人
From: 鈴木宏平

ここ西粟倉村では雨の日が続いています。つい先日までは雪が積り霜が降りていたのに、雨が降るということはそれだけ暖かくなってきたわけで、季節に敏感な鳥の鳴き声や羽虫たちが春近しと知らせてくれます。小川のほとりに建つ我が家では、冬の張りつめるような空気の中でも常に水の流れる音が聞こえてきます。これから春になれば川のせせらぎに加えて、鳥や虫の声、冬の間閉じこもっていた人たちの声も重なってくるのでしょう(近所のおばあちゃんたちが早速散歩に出ているようで、事務所の外から井戸端会議の笑い声が聞こえてくるようになりました)。

前回の返信の後、この歳になってスポーツ選手でもないのに骨にヒビが入る怪我をしてしまいました。以前この往復書簡でも紹介した村のフットサルに参加中での怪我ですが、まだサッカー少年だった頃以来のギブスを巻いた生活もそろそろ一ヶ月になります。幸か不幸か、利き腕ではない左肘の怪我なので仕事のPC作業は続けてこられたのですが、日常生活を送るのはやはり大変で、完全な車社会の村では息子を保育園に連れて行くことすらままならない日々でした(もちろん抱っこも出来なければ、オムツを替えることも出来ないので、この一ヶ月はパートナーからの冷たい視線を受け続けるという別の忍耐力も試されました)。そのため急遽仙台の実家から母を呼び、一ヶ月間の同居生活を送ることになりました。

仙台から来た母に初孫(長男)はべったり

もうすぐ3月11日、震災から1年が経ちます。僕にとってのこの1年、月並みですが「もう1年経った」と「まだ1年前」という想いが正直なところですが、数日後の3月11日、僕はきっと家族とともに自宅で過ごすことになるでしょう。仙台から遠く離れた土地ですが、岡山を含め西日本の各地でも追悼イベントは開かれるようです(当然仙台や東北とはその規模と密度は違うでしょうが)。そのいずれにも自分が参加しないのは、決して否定や意思表示といった確たるものがあるわけではなく、自宅で家族と過ごすのが自然な選択のような気がしているからです。

もうすぐ一年というこの時期に母が岡山に来たことで久しぶりに震災直後の実家の写真を観ていました。思い出したくもない光景から、ボランティア(無名の善意)の力に支えられ、漸く日常に戻りつつある(まだまだ爪痕は残っているが)。そう話す母の顔は震災後初めて会えたときよりもずっと柔らかく、その分だけ時間が経っていると感じさせます。

僕は果たして被災者なのか、それとも震災は対岸の火事だったのか。
幸いにも実家で暮らしていた父母は無事生きていて、家屋が津波で全壊といっても住んでいた場所を失ったわけでもなく(3月から住む予定ではあったが)、職を失ったわけでもなく今こうして自分の家族とともに暮らしています。きっと被災の度合いを比較することに意味はないのでしょうが、かけがえの無い命を失った人がいて、残された人がいて、その数が数万人という規模で起きたという事実の中で、自分を「被災者」というにはに引け目を感じてしまう。
さりとて自分が生まれ育った土地が無惨に破壊されたあの光景(ヘドロの臭い、歩くことすらままならない瓦礫の山)への絶望感と怒りは決して人ごとではなかった。これから始まったであろう仙台での生活への期待も不安も、実家に田んぼと畑があることの安心感も否定(もちろん自然にはそんな意志はない。受け手の僕の感情)された失望感はやはり自分の身に起こったことなのだ。

結局自分が「被災者」か否かという区分けをすることよりも、「震災」を経て生きている自分がこれからどのように暮らして行くかを考えるべきなのでしょう。3月11日からあまりに多くの人々の人生が変わってしまったのでしょうが、僕個人の出来事としても岡山へ引っ越すという大きな転換の年となりました。1年目を迎える3月11日はどうしてもシンボリックな1日となりますが、これから2年3年、10年後と続けて「どう生きるか」を忘れずに暮らしていきたいと思います。まずは数日後の「3月11日」、家族でもう一度震災の話をしよう。

めっきり暖かくなって来たこの村での生活も、我が家も皆随分と慣れてきたようです。
先程からパートナーが上着を脱いで、鍬で畑の土を起こしているのを横目にこの返信を書いています。
もうすぐ春ですね。

いつか自分の子どもたちも

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coresspondence: 鈴木宏平 04 http://project-logue.jp/?p=379 http://project-logue.jp/?p=379#comments Thu, 02 Feb 2012 15:24:22 +0000 http://project-logue.jp/?p=379 To: 鈴木宏平

From: 小川直人

 

このところ、春に向けて少しずつ体を整えています。と書くとなんだかスポーツ選手みたいですが、気持ちとしてはそんなところで、いわば自主トレ期間です。この1年あまりずっと子どもを中心とした時間の使い方だったので、集中して考えごとをしたり、文字通り運動をしたりほとんどできませんでした。それに、震災のおかげで想定していたよりは人と会ったり外出したりすることが多い日々だったものの、人との約束も基本的には子どもの都合が最優先(まあ、相手からすれば何様のつもりだという感じでしょうが)。春からはそのあたりの折り合いをつけていかなければなりません。まずは、一日の時間割を少しずつ変更してみたり、ストレッチや筋力トレーニングをしたり、子どもの方もトイレトレーニングを始めたり、この3ヶ月くらいかけて仕事復帰するための体作りです。

とはいえ、4月から子育てしないわけではないので、昨年までの通りの仕事の仕方にはならないでしょう。第一、家事だって仕事ではあるし、町内会のこともあるし(僕の住んでいるマンションは、同じ区画に隣接するマンションだけでひとつの町内会なのです)、このlogueもある。単純に収入を得る作業だけを仕事というものではないということはこの数年かけて身にしみて感じるところです。

鈴木さんは西粟倉村に暮らすようになって、デザイナーとしての仕事に変化はおきていますか? 見ず知らずの土地、それも(失礼な言い方ですが)そんな田舎暮らしになって、デザイナーという仕事が成り立つのかという素朴な疑問もあります。毎日どんなスケジュールで仕事をしているのか?新しいお客さんはいるのか?これまでとは違う考え方や作法を身につけなければならないと考えているのか?など、もしかしたらまだまだ起動中かもしれませんが教えてください。

 


To: 小川直人

From: 鈴木宏平

 

そうか、もう年明けも終わり春の準備を始める時期になったのですね。
今このお手紙を書いている窓の向こうでは今日もまた雪が降り続いているので、僕はまだ春のことまで思い至りませんでした。確かに雪解けの春からはこれまで以上に体を動かす日々になるはずなので、今からでも体づくりを始めなければですね。村に越してから参加し始めた月2回のフットサルでは、毎度足首やら肋骨を怪我をして帰ってくるので、いいかげん連れ合いからの冷たい視線を感じています。我ながら情けない。

小川さんはこの4月で育休から職場復帰されるのですね。
メディアでも男性の市長が育休を取る等で騒がれることはありますが、仙台市では小川さんのように父親が育休を取るケースは稀なのでしょうか。念のため西粟倉村へ問い合わせてみましたが、これまで村の職員で男性が育休を取得した事例はないとのことでした。
そもそも我が家は学生時代に上の子が生まれ、下の子が生まれた今も僕はデザイナーとして、パートナーはその手伝いと作家活動を自宅(兼事務所)で行って来たので制度自体にあまり馴染みがありません。ですが、身近で初めて育休中の小川さんの活動を見ていると、休むというよりはむしろ活発に活動されている様ですね。
「イクメン=育児に参加する父親」という言葉に僕は違和感を感じてしまいます。育児(家事)はそもそも参加するものではなく、分担するものと考えているからです。一般的には、まずパートナーと分担し、手(時間)が足りない部分を親であったり保育園などの施設で補う(昔はそれが近所付き合い等のコミュニティ内で行われていたのか)。夫婦の都合でその配分に差があったとしても、子育ては父親も母親も等しく責任のある『仕事』だなと思います。

さて、村に来た鈴木の一日はこんな感じです。
(もちろんすべての家事を僕一人でやっているわけではなく日によって役割が変わります。)

6:30  起床
|   炊事・子どもを着替えさせ朝食
7:50  上の子を見送る(村の小学生はバス通学)
|   洗濯・食器洗い
9:00  下の子を保育園へ
|
9:30  いわゆる始業(午前の部)
|
12:00 下の子を保育園へお迎え
|   簡単な昼食
13:00 仕事(午後の部)
|
17:00 いわゆる終業(昼の部)
|   炊事or子どもと戯れる
18:30 夕食
|   お風呂やら戯れやら
20:30 子ども達就寝
|   食器洗い
21:00
|   鹿に怯えながら小屋で仕事
24:00
|   ベッドに潜り込み、ヘッドライトで本を読む(ちょっとしたキャンプ気分)
25:00 就寝

と、書き連ねてみれば、これはまずい。これでは土に触れる時間がない!折角越して来たのに村の生活を楽しめていない!!

住んでいる地区での『とんど祭』(仙台でいう『どんと祭』)

「私の職業はデザイナーです」と村の人たちに話してもあまりぴんときていないようですが、それでも「ホームページを作ったりもします」と話すと納得されるのは時代でしょうかね。越して来て2ヶ月が経ちましたが、まだ新しいお客さんとまではいきません。一度、村の大工さんからパンフレットの相談はありましたが、残念ながら流れてしまいました。村内で言えば僕のデザイナーとしての仕事はあまりないでしょうし、成立しない(食べて行けない)と思っています。対企業・団体を主とした生業なので、人口が少ない場所では当然仕事もありません。
その分、今考えているのは生活の場としての村を楽しむことです。まだまだ知らない土地と住民がいるこの場所で、僕を含め、家族がどれだけ暮らしを堪能できるかがこれからの挑戦です。畑はもちろん、木工や草木染め、勉強会、ワークショップ、山や川遊び、まだまだやりたいことは沢山です。東京で絵に書いていた餅も、この地では暮らしの一部として楽しみたいと思っています。

村に住む素敵な夫婦のお宅で、木で作るスプーンのワークショップ。手で作ることは楽しい!!

収入を得るための仕事であれば、これまで東京にいたころのお客さんとのお付き合いを続けることと、積極的に村外へ出かけて行くことが必須になります。ネットのインフラが整い、離れていても作業を進めて行くことは可能になりましたが、それでも付き合いが始まるときは膝を突き合わせて初めて信頼関係は築けるものですよね。
そして、デザイナーがデザインをするだけの姿勢は通用しないので、これまで以上に「話を聞く→まとめる→ストーリーをつくる→形にする」という能力が必要だなと感じています。僕の生業としてのデザインは、あくまで『お手伝いをする』行為なので、僕自身が惚れた相手(モノ・コト)と継続的に付き合っていきたいですし、お客さんにも好きになってもらいたい。そのためには仕事の能力はもちろん、人間としての魅力を高めなければならないと、田舎に来たことできちんと意識させられた点です。

僕も春に向けて僕も準備を始めなければなりませんね。

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coresspondence: 鈴木宏平 03 http://project-logue.jp/?p=363 http://project-logue.jp/?p=363#comments Mon, 09 Jan 2012 14:29:23 +0000 http://project-logue.jp/?p=363 To: 鈴木宏平

From: 小川直人

 

大晦日にこれを書いています。カレンダーには20日ごろにこの手紙を書くようリマインダーを設定しているのですが、遅れに遅れて大晦日の早朝。

前回の手紙に書いた子育てママ講座を皮切りに(みなさんの旦那さまとはだいぶ違うと思われたみたいで、やや浮いた感じでした)、怒濤の師走を過ごして気がつけば大晦日です。その間に、DOMMUNE FUKUSHIMA!の配信が2回、大学の講義が2回、logueでのトークが1回、そのほか人に会ったりしていてなにやら忙しかった。極めつけは、妻の仕事の都合で急遽クリスマス時期に東京。3日ほど都内で子どもの面倒を見ていて、ひさしぶりに人の多さに圧倒されました。六本木や表参道を歩いていると、今でもこんな嘘みたいなクリスマスなのかとあきれかえってしまいます。安易に批判してはいけないと思うけれど、特に今年の自分にはそう感じざるを得ない光景でした。
まあ、慣れない街でずっと子どもを抱っこして全身が痛かったからかもしれませんが……。お店やギャラリーでは興奮して騒ぐし、移動すると自分で歩くのをいやがって、抱っこされたまましまいには眠る、の繰り返しでした(苦笑)。結婚する前に立ち会いをしてくれた元上司から「結婚とは、ままならないことを経験するということです」と言われたのですが、それが本当かどうかはともかく、子どもを育てるというのはまさに「ままならないこと」の連続ですね。しかし、ままならないことがそれほど苦痛でもない(まったく平気かといえば嘘ですが)。なぜなら、結婚や子育てに限らず、生きていることの大半は「ままならない」ことばかりだと思うので。

さて、そちらは雪の季節になっていることでしょう。自然が豊かというのは楽しいことばかりではなく困ることもありそうですがどうですか?

こちらのほうが寝たい

 


To: 小川直人

From: 鈴木宏平

 

あけましておめでとうございます。仙台は例年の通り寒いですか? こちらは人生初の雪国生活でまだまだ慣れたとは言えない状況が続いています。先日は玄関から前の通りまでの雪かきをしましたが、刺すような寒さだったはずが気付けば汗をかく作業。村の大人たちは、

「雪にはしゃぐのは子ども達だけじゃあ」

と顔をしかめますが、案外僕も一緒に楽しんでいます。まだまだ新参者なのでしょう。さらさらと振る雪は一粒毎にきれいな結晶を形作っています。その話を聞いた息子は、飽きもせずしばらく自然の不思議に没頭していました。

こどもの適応力は強い

こどもの適応力は強い

 

小川さんも師走はお忙しかったようですね。そして極めつけのクリスマスシーズンに東京滞在とは。やはり人々は日常を欲しているのでしょうか。
独身時代、渋谷・六本木等を訪れたときは、この街は毎日が七夕祭りかとひとりごちたものですが、親になってみてやはり極力近寄らずにいました。親の好みとはいえ、よく近所の多摩川の土手を散歩したものです(息子の自転車の練習もそこでした)。
良くも悪くも街はとても刺激的な空間です。光も音も空気も、そこにいるだけで変化に富んだ情報が飛び込んできます。
村で過ごす初めてのクリスマスから年越しはとても静かな日々でした。その時期になれば当たり前に流れてくる嘘みたいなクリスマスのBGMも年末特売広告も目にしません。もっとも、我が家にテレビが無い環境だからなのですが。

写真を拝見して、私も思わず苦笑してしまいました。上の子のときはそうして電車に乗っていたなあと、思い出し笑いです。
こどもが生まれて一番の変化といえば、24時間が全て自分のものではなくなったことでした。上の子が完全ミルク育ちだったこともあり、夜泣きのたびにミルクを飲ませたことから始まり、保育ママ (資格をもった保育士さんが自宅でこどもを預かってくれる仕組みです)への送り迎えだ熱をだしたと常にこどもありきで時間をやりくりする生活となりました。まさに「ままならいない」を知りました。でも、それが親になるってことでしょうか。それにしても、知恵がつき自我の育ちつつある小学生の意思は、本当にままならないものです……親としても成長と反省が必要な時期なんですね。

さて、この村の話。
雪が積もった日は、辺り一面が白く覆われます。その世界はとても静かで、自分が吐く息の音すら雪に吸い込まれていくような静けさ。車さえ通らなければ、もしかしたら他に動物も人もいなくなってしまったと錯覚する時間。そんな朝は嬉しくなります。均一に積もる雪も、よくよく眺めていると動物たちの足跡があって楽しいものです。裏山から続く蹄の足跡は鹿。我が家の玄関に伸びた小さな足跡は狸か猫か。ちゃっかりフンの落とし物は迷惑ですが。

雪は音も無く降り積もる

雪は音も無く降り積もる

村での生活は車が必須なのですが、雪こそがその一番の障害にもなってしまいます。
つい先日、村の友人宅へ遊びにいった道すがら、軽自動車が側溝に脱輪した現場に遭遇したので、通りかかった数人の男たちで車を運び出す経験をしました。僕自身車の運転は褒められたものではないので雪国での教訓です。
それに自宅が谷間にあって朝日は遅く、日没が早いせいもあってか、毎日とても寒い日々が続いています。暖房の灯油もかなりの消費量。田舎にきて、余計に車と暖房で石油依存度が上がってしまっている矛盾は、これから改善しなければですね。

それに、以前まで続けていた家族の散歩も腰が重くなり、なかなか近所のおじいちゃんおばあちゃん達に会うことも減ってしまいました。お隣のおばあちゃんにも、
「ひなちゃん、さくちゃんに会えなくて寂しいけど、ここらは皆冬眠中だから仕方ないわぁ」
と言われています。それでも、外でこどもの声がするのが本当に嬉しいとも言ってくれています。僕が孫の世代になる地域なので、こどもたちは近所の皆さんのひ孫のように可愛がってもらえるのでしょう。春になったら少し大きくなったこどもたちとまた歩き回らなければですね。しかし、これから2月にかけてが寒さと雪の本番よと村人たちに脅されていますが……。

看板広告やイルミネーション等、人為的な変化の乏しい村の生活ですが、その分、土や空や動物たちの見せる違った表情を身近に感じます。このまわりの変化に目が向かなくなったとき、僕はこの村に住む意味(土のある生活を求めた)を失ってしまいます。そうなる前に、まだまだ村の生活でやりたいことがあるので、年が明けた今年から、本腰入れて暮らして行きたいと思います。

まずは明日、地区の役員決めの寄り合いがあるので、初めてこの知社地区の先輩全員集合の場で挨拶して来たいと思います。
※日本で2番目に多いはずの「鈴木」は、この村では我が家のみなのです!

ゴミを出すのはちょっとした散歩

ゴミを出すのはちょっとした散歩

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